やりたいことと出来ることの関係

「やりたいことが思うようにならない」「必要だけどやり方が分からない」という事態は解消されるべきだ。しかし「特にやりたいとは思わない」「自分には必要ない」「他のやり方でできるからそれでいい」という気持ちは、むしろそれなりに尊重されるべきだろう。

  • 黒須教授
  • 2016年1月19日

高齢者のユーザビリティ研究における壁

放送大学のゼミ生である原山誠氏は、高齢者ユーザにとってのICTユーザビリティの研究に着手している。彼が予備調査をしたところ、インタビュー調査の対象者となった5名の高齢者は、いずれも仕事でパソコンなどを使っているが、彼らが利用している機能の範囲内では特に使いにくさやわかりにくさを感じてはいない、ということが分かった。多数の問題点が見つかるかも知れないという予想で調査をしてきた原山氏は、ちょっと予想外の壁にぶつかってしまったわけだ。

高齢者の多様性

高齢者にはハイテク機器を苦手とする人が多い、とは良く言われることだ。政府も研究者も、高齢者のハイテク利用促進のための策を練っているし、原山氏の当初の研究目標もそこを突っ込んでみようということだった。

しかし、現在、彼と僕の仮説はちょっと変化しはじめている。つまり、ハイテク機器を活用したいと考えている高齢者が、その利用に苦労しているなら、それを支援することは必要だが、もしそうでないならば、つまり特別ハイテク機器を使わなくても生活していけるし、現状のままで特に不便は感じていないということであれば、無理に彼らをハイテク生活に引っ張り込む必要はないのではないか、ということだ。彼の研究を明かしてしまうことになるので、詳細についてはここには書かないが、この話は、ハイテクを活用した生活が望ましい姿であるという思い込みを一旦捨て去る必要があるのではないか、という話につながる。

たびたびこのコラムに登場する私の母親は、パソコン嫌い、スカイプ嫌いで、電子ピアノも嫌い、補聴器も嫌い、スマホも携帯も嫌いという具合で、ハイテクからは極めて遠距離な場所で暮らしている。彼女が良く口にするのは、そんなのなくても連絡を取るなら葉書や手紙でいいし固定電話だってある、ピアノは在来型のピアノの方がむしろタッチが好ましい、出来ないことがあってもそれで特に不便はない、というようなことだ。要するに、従来の生活様式で暮らしてゆけるなら、それでいいではないか、何が問題なのだ、ということだ。典型的なラガードのライフスタイルではある。

それでいて、浴槽にお湯をためるスイッチのオンオフくらいは出来るし、風呂の温度調節も勝手に46度に設定してしまっていたので、あわてて僕が43度まで下げたくらいだ。いいかえれば、必要なインタラクションは必要な範囲でできている。近年の企業ユーザビリティ意識の向上から、電機製品などのインタフェースは簡単操作でもそれなりのことは出来るようになっていることは大いに関係しているだろう。また、老人ホームの訪問者の玄関からのブザーに応じてドアを開くスイッチ操作ができなくても、訪問者の方で事務室に連絡してくれればドアは開けて貰えて、その人に会える。つまり、機器インタフェースのユーザビリティの向上により、あるいはマンパワーの利用により、必要なことは済ませていられるのである。

ユーザ一般に拡張して考える

この考え方は高齢者に限った話ではないように思う。たとえば我々が日常的に使っているWordやExcelでも、すべての機能を知り、使いこなしている人はどれくらいいるだろうか。おそらく、皆、自分に必要な範囲の機能を自分なりの操作でやって、操作手順が気に入らないなどの不満はあるにしても、その範囲で特に大きな不便は感じていないのではないか。要するに、やりたいことが出来ればそれでいい、ということだ。

僕のように、性格的に新しいモノが好きで、仕事柄そうしたものをどんどん買ってしまう人間は、たしかに壁にぶつかることが多い。それはある意味で「高望み」をしているからだ。でも、これはむしろ特殊なケースというべきだろう。オピニオンリーダに釣られて高望みをしてしまったケースというべきだ。

たしかに「やりたいと思ったことが思うようにならない」「仕事で必要なんだけどやり方が分からない」という事態は解消されるべきだ。しかし「特にやりたいとは思わない」「自分には必要ない」「他のやり方でできるからそれでいい」という気持ちは、むしろそれなりに尊重されるべきではないだろうか。そうした人達に無理矢理ハイテク機器を使わせて「ほら、この人達には使えないでしょう」と言うようなスタンスは間違っているように思うのだ。