ユーザ中心設計に関係した話題

ユーザファーストという誤解、ペルソナがユーザ像なのか、UCDが人間を退行させる可能性

ここでは前回とりあげたUCDについて、それと関連した話題3つ「ユーザファーストという誤解」「ペルソナがユーザ像なのか」「UCDが人間を退行させる可能性」を取り上げる。

ここでは前回とりあげたUCDについて、それと関連した話題を3つ取り上げる。

補遺1: ユーザファーストという誤解

これまで述べてきたように、UCDのコアは「ユーザの視点から設計を行うこと」であり、『ユーザのニーズが設計を支配すべきだ』という点にある。

この点に関してm.kawachiさんの「ユーザーファーストの功罪」というエッセイは興味深い問題を提起している。ちょっと引用すると

業界のデザイナーと話したりweb上でたまに見かけるのは、「ユーザーの声を聞こうよ」、「事業者視点じゃなくてユーザーファーストを貫くのが大事でしょ!」といった言説です。「ユーザー」を中心に据えて、彼らの発言や意見を“鵜呑み”にする、要はユーザーという存在を神格化してしまう風潮を感じます。ときには、「ユーザーファースト」であることが自分たちの考えの正当化に使われるような詭弁になっていることもあるのではとさえ思います。

これは尤もな発言だと思う。要するに「ユーザのニーズを重視する」ことと、「ユーザのニーズに従う」ことが、世の中では結構混同されているということだ。まず言えることは、ユーザが「~のようなものが欲しい」「~できるようにして欲しい」「~のようだったらいいのに」「なぜ~のようにならないの」のように発言した表層的ニーズを、そのまま設計に取りこもうとしてしまう危険性について、先人達があまり丁寧に語ってこなかったことが混同を招いたといえるだろう。

ここに引用されているようなデザイナーの姿勢は実に主体性を欠いたもので、主体はユーザであり、責任もユーザにある、といったユーザまかせの放任デザインを生む結果につながっている。じゃあ、ユーザの声なんか無視しろというのか、と言われると、そうではない。一つのポイントは、ユーザのニーズはユーザの意識レベルにあるとは限らず、ユーザの行動や発言の裏を考える洞察力によって掘り起こされるものだ、ということである。つまり洞察力のないデザイナーには主体的なデザインを行うことは無理なのだ。話を聞いたり観察したりしているユーザの特性やそのおかれている状況を勘案して、ああ、こういう点が問題ではないかな、と考えること。これが必要なのだ。場合によってはユーザの発言は無くてもいい。

さらに言えば、しばしば口にされているように、ユーザはデザインスキルを持っていない。だからユーザにデザインをさせるなんてトンデモナイ、ということにもつながる。いわゆる参加型デザインやco-designといわれるパラダイムにおける危険性はここにあり、ユーザの言動を間近にするだけに、より一層、ユーザから距離をとってメタなスタンスから事態を概観することが難しくなる。もちろん、デザイナーに主体性があると同時にユーザにも主体性がある。だからユーザは勝手なことを言い、好き勝手な行動(商品の選択を含めて)を取ればいいのだ。もちろんその結果についての責任の半分はその製品やサービスを選んだユーザにある。そして残り半分はそういうデザインをしてしまったデザイナーにある。

改めて本題に戻ると、UCDのコアはユーザファーストということではない。ユーザの言動をメタな視点からデザイナーが主体的に解釈し、自分のデザインを進めていくところにUCDのコアがあるのだ。

補遺2: ペルソナがユーザ像なのか

チカイケ秀夫さんのエッセイ「マツモトキヨシのロゴデザイナーが言った『UXの本質』と、IT業界の根本的なズレが致命的になるについて」も重要な指摘をしているので、ちょっと触れておきたい。

ここで彼は

今の「UX」は文脈は、ユーザー体験と口では言っていますが、ユーザーの顔がイメージできていません。自分たち都合で作ったペルソナを、自分たちの都合で動かすのがUXになっています。

と書いているが、僕はこれを読んで、ペルソナという考え方が登場した当初から僕の危惧していたことが、やはり起きてしまっているのだ、と感じた。

ペルソナは、デザインチームの間のイメージ共有の道具であると同時に、デザイン目標を設定するために作られる仮想の、あくまでも便宜的に作られる「仮想のユーザ像」である。ここで彼が批判しているようなご都合主義のためのツールではない。

ISO規格ではspecified userという表現が出てくるが、このspecified userは、ペルソナとして設定されるような一人二人の範囲ではない。そこで設定された特性をもち、設定された利用状況にある「すべての」ユーザである。だから、ペルソナを使うことを悪だとまではいわないが、それはspecified userからの単なる任意サンプルに過ぎないということを忘れてはならない。いいかえれば、彼がエッセイの末尾に書いているように

『UX=すべての顧客体験』を、制作会社、UXデザイナーは、考えないといけなくなります。

ということになるのだ。ただし、ここに書いてある「すべての」は「specifyされた範囲におけるすべての」という意味である。時にはspecified userはほとんどすべての人類を指すこともあるだろうが、それなりに属性や利用状況は設定できるはずだし、すべきでもある。だからご都合主義的なペルソナを作り動かして恣意的なデザインをしていれば、それはUXDという範囲から容易に逸脱してしまうことになる。

補遺3: UCDが人間や社会を退行させる可能性

補遺1で引用したm.kawachiさんは、先ほどの引用箇所の後で

昨今のユーザー中心主義といった概念は、単純化された部分だけが受け取られてしまい、結果ユーザーや人間に迎合したデザインやものづくりとなり、人間や社会を退行させる可能性を孕んでるのではないでしょうか。

とも書いている。また

UXデザインやユーザーファーストという言葉尻を表面で受け取って、「それが善である」と完全肯定的に捉えてしまう現象に、それが本当に善いことなんですか?

とか

その信念や問いを自分の主観と身体知のレベルで落とし込まず、ただユーザー調査をして改善することをしていると、知らず知らずに人類を退行に導いているかもしれません。

とも書いている。これも実に重要な問いかけである。

人工物進化学を提唱し、そのためのエビデンスを収集していた(最近はサボっているけれど)僕は、効果と効率というユーザビリティの下位概念について、それは果たして人類を本当の意味で助けるものなのかという疑問を抱くようになった。もちろん人類は本能的といってもいいくらいに現在手にしているものより効果的なもの、効率的なものに魅力を感じ、そちらに向かって進んできたし、またこれからも進んでいくだろう。

洗濯機を例にとれば、これまで、川で踏んづける、盥(たらい)と洗濯板を使う、一槽式洗濯機、二槽式洗濯機、全自動洗濯機、全自動洗濯機と乾燥機の組み合わせ、洗濯乾燥機と進化をつづけてきたし、近未来には折りたたみや収納まで機械的にできるようになるだろう。ユーザのニーズから考えれば、水に手をつけて洗うことによるアカギレの防止、ぬれて重たくなった洗濯物を脱水機に移す労苦の軽減、脱水機から乾燥機に移す手間の軽減、乾燥した衣類を畳む手間の軽減、畳んだ衣類を家族それぞれの置き場所にしまう面倒さの軽減、という形で様々な配慮が盛り込まれ、洗濯機が進化してきた。

見方によれば、それは洗濯、というよりは衣類管理と総称した方がいいだろうが、それをシステム化することによって時間的拘束を軽減し、肉体的労苦を減少させる方向に進化してきた。しかし、時間的拘束については、人々はシステム導入によって浮いた時間を本当に有効につかっているのか、という問いが生じる。このことは、一昔前、OAの導入によってペーパーレスが叫ばれたけど、一向に紙はなくならないし、労働時間も減らないのと似ている。また肉体的労苦についても、重い洗濯物を持ったりする身体負荷がなくなった結果、わざわざスポーツクラブに通うようなことになっている、という事態にも関係している。

これをm.kawachiさんは「退行」と呼んでいるのだが、そもそも新たな人工物の開発自体が人間を退化の方向に向かわせているのではないかという疑念がある。身体的能力の低下はもちろんだが、近年はICT特にAIの普及により、知的能力の低下もおきつつある。この大きなうねりをデザイナーの主体性だけで解決できるかどうか、疑問に思っている。ユーザ中心設計は、結構な考え方ではあるけれど、それが適正に運用された場合でも、人類はその能力を退化させているのではないだろうか。

もっとも、ペーパーレスは文字通りには展開しなかったけど、仕事を処理する能力は向上しているとか、スポーツクラブに通うことによって新たな知人や友人ができて社会的靱帯が強まったといったポジティブな側面もあるだろう。ものごとには退化と新たな展開があり、それらは表裏一体になっているという見方は可能だ。そのあたりを考えるとbright sideを意識しつつも、dark sideにも目を配り、UCDを主体的に推進してゆくのがこれからのデザイナーのあり方である、というあたりに落ち着くのだろうか。

公開: 2018年12月5日
著者: 黒須教授