人工物の進化とユーザの進化

人間における、脳機能の部分、いいかえれば認知機能の変化や変質が、ゆっくりではあるが着実に進行している。この、現在起きている変化や変質に対して、それを認めること、そしてそれに取り組む新しい社会的パラダイムが必要になっているのだ。

人間は変化してきた

猿から人間への進化ほど大きな変化ではないが、人間における変化や変質も、ゆっくりではあるが着実に進行している。それを単なる変化や変質といわず進化と呼ぶことが許されるならそう呼びたいところなのだが、最初はまず変化や変質と呼んでおくことにしよう。それが、単なる変化でも変質でなく、環境適応的な変化や変質であることが明らかになった時点で、それを進化と呼ぶことにする。もちろんそれは遺伝子レベルの話にならないかもしれないが、ともかく環境適応的変化という意味では進化と比喩的に呼んでも差し支えないだろう。

なお、視覚が受容できる電磁波が380nmから780nmまでの波長に限定されるとか、人間全体の平均体重が200kgになることはない、といったような人体の生理的特性や身体的特性では、まず当分の間変化や変質は起きないだろう。

現在、進化しつつあるのは脳機能の部分、いいかえれば認知機能の変質である。具体的には本文で見ていくことにして、人間、特にその脳機能や認知機能の部分をいつまでも固定的に考えるのは間違っているだろう。少なくとも人間がおかれている状況は変化してきており、人間はそれに適応するべく変化や変質をしようとしているからだ。

クーパー(Cooper, A.)が『コンピュータは、むずかしすぎて使えない』のなかで書いているように、人工物の環境が「機械時代」と「情報時代」という具合に変化を遂げてくるなかで、プログラマーからデザイナーに時代を牽引する主導権が移行してきたように、人間はその時々の環境に適応するように変化してきた。いや、それ以前の農業時代と機械時代との間でも、さらにそれ以前の狩猟や採集の時代と農業時代との間でも同様の進化はあったことだろう。ともかく現在起きている進化、ないし少なくとも変化や変質に対して、それを認めること、そしてそれに取り組む新しい社会的パラダイムが必要になっているのだ。

ただし、クーパーが書いているような技術中心の考え方からデザイン中心、あるいはユーザ中心の考え方への移行というのは人工物を作る側の話であって、本稿で扱うものではない。ここでは、それら人工物を利用するユーザの側における変化ついて論じてみたい。

人間の変化の例

新しい取り組みについて述べる前に、進化ないしは変質の事例を少しリストアップするなら、次のような例を挙げることができるだろう。

1. 文字入力のための人工物と人間の適応

文字を手書きするかわりにタイプすることが一般的になってきて、まず入力速度が変化した。その結果、文章にすべきことをじっくりと頭のなかで考えてから書くよりは、極端にいえば思いついたことを、まずタイプしてしまうというように、文章作成の習慣が変化した。毛筆で書く場面を想像して欲しい。一文字でも間違えて修正したりすれば大変見苦しいものになってしまう。だから書き出す前にまず熟考し、それから一文字一文字、筆順や字形に気持ちを込めて書いていった筈である。

それに比べると、修正や移動などが容易になった現在では、考えたらまず書いてしまうというように書字習慣が変化した。そのために文章の内容が薄くなったと批判する人もいるほどである。もちろん筆でなく、万年筆や他の文房具でも、筆と同様に修正は容易ではなく、手紙などで修正したままのものを送るのは失礼なことと考えられていた。例外は作家の原稿で、現在残されている文筆家たちの原稿にはFigure 1のように結構修正のあとが残されている。

図
Figure 1 河野多惠子氏の草稿。修正の跡があちこちに残されている。(森井書店Webサイトより

しかしタイプをする場合には、修正の痕跡は残らないので、まず自由に書いてしまいそれから推敲をする、というような変化が起きた。認知的側面でいえば、作業記憶のなかで原稿を考えるという負担が減ってきたといえる。これは負荷軽減という意味では望ましいともいえるが、頭で考えるかわりにディスプレイの上で考えるという変化が起きたと考えると、作業記憶における思考プロセスが怠慢になってしまい、可能性としては劣化してきてしまったとも考えられる。しかし、それとは反対に、軽減された作業記憶の負荷を他の側面に活用できる人もいるだろうと想像できる。

タイプ入力は手書きと比較して明らかに高速である。その効率性は望ましいものと言えるのだが、他方、タイプ入力では細部への配慮が行き届かないとか、一文字ずつの重みが軽くなってしまったという側面もある。我々の読み書き習慣は、すでにタイプ入力によって汚染されているので、明治、大正、昭和中期までの作家の文章を読むときに、タイプ入力をする現代の作家の文章を読むときのような軽さと速度で読もうとしてしまう傾向があるのではないか。文章の重みを考えず、言葉の選ばれ方に思いを馳せることもなくなった。必ずしもいい習慣だとは思えないのだが、これからはタイプ入力的な読書が通常のものとなってしまうのだろう。認知的には、文字面の裏を読むような丁寧な読み方をすることがなくなり、表面的に文を理解するようになってきたといえる。ただ推敲が容易になった分、文章の質が良くなっている筈だ、と考えることもできるだろう。

さらにタイプ入力ではカナ漢字変換を使うが、これは手書きのような再生型インタフェースではなく、再認型インタフェースである。まず筆順が関係なくなった。文字はパターンとして知覚されるようになった。そして再生型でないために文字を再生できるほどしっかりと記憶しておく必要がなくなった。この点も認知的負荷の軽減ということになるが、役所の書類など手書きを必要とするときには、それを面倒に思うようになってしまった。役所の書類も、確定申告の電子申請のようにタイプ入力で済ませられるものがでてきているので、いずれ文字の手書きは書類にサインをするとき以外、ほとんど必要とされなくなる時代になるだろう。認知的には、再認型インタフェースによる記憶の負荷の低減ということになるが、同時に漢字を書こうとすると容易に思い出せなくなった(つまり長期記憶から検索することが困難になった)という副作用も発生した。ある意味では能力低下を引き起こしているともいえる。

このように、文字入力の場面では長期記憶、短期記憶(作業記憶)の負担を軽減する方向にインタフェースは変化してきており、同時に我々の記憶能力も一般的には低下する傾向を見せている。つまり有用な環境のおかげで、人間の能力低下が引き起こされているのだ。これは環境への適応的変化ということができるが、果たして進化と呼ぶべきものだろうか。

情報環境は着実に進化している。しかし、人間は持ち合わせた能力を奪われる形で変質してきているのではないか。反面、こうした情報環境の変化は、書籍やブログなどの大量生産を生んでいる。簡便になった文字入力を利用して、どんどん文章を書き印税を稼ぐ人たちもいる。人工物が進化するなかで、それにうまく適応して要領よく生き残っていく人たちもいる。あるいは前述したように、作業記憶の負荷が軽減されたことを利用して、その分の認知的リソースを文章の内容を吟味する方向に活用できている人たちがいるかもしれない。これからの世界はそうした人たちが中心になるのではないだろうか。

ただ、もし情報環境の発達にともなって生産性をあげたり、内容吟味を十分に行えるような人たちがいるとしたら、彼らにとって世界は、タイプも可能だし手書きも可能だという意味で、選択肢の拡大したものだということになる。もしかすると、そうした人々がこの情報環境に適合してゆける人間なのかもしれない。

2. 移動手段という人工物の進化と人間の適応

大昔、我々の祖先は地表を移動するのに徒歩で行くか牛馬を利用するしかなかった。近現代になって自転車、電車、自動車、飛行機と新たな移動手段が登場することによって移動は効率化された。これらの新たな移動手段は機械時代の発明ではあったが、現在ではコンピュータを内蔵し情報時代の産物となっている。

こうした地理的環境の移動手段の変化は、まず身体的側面、といっても身体的特性ではなく身体能力の衰退に影響を及ぼした。単純に歩くことが少なくなり、体力の衰えに影響してきたのだ。もちろん体力の衰えた高齢者や歩行の困難な障害者にとっては便利な移動手段ではある。従来の交通手段では長い時間を要する遠距離への移動も容易になった。

この利便性の代償として体を鍛える機会が減り、万歩計という発明がなされたり、わざわざスポーツクラブという場所に通ったりすることになった。こうした変化は、環境要因に関連した人工物の進化が人間の選択肢を拡大したという意味で好ましいこととも言える。ただ選択の仕方によっては、たとえば近場に行くにも自動車を利用し、その一方でスポーツクラブにも行かない、という負の生き方をすることも可能にもなっている。そうした人々が衰退し、さらに死滅してゆき、適切な人工物を利用する人々が生き残ってゆくと考えた時、それが人間の進化の形なのだともいえるだろう。

興味深いのはヘリコプターが存在する時代に歩いて山に登ろうとする人たちがいることだ。単に頂上に立ちたいだけであれば、ヘリコプターを使えばいいだろう。しかし、達成感を求める人たちは苦労して、時には命を賭けて山に登る。これも重点を置く価値観に対応した選択を行うという意味では現代的な生き方で、人間の進化の結果とみることも出来るだろう。ちなみに2019年の正月番組で、イモトアヤコがアイガーの東山稜に登頂したことが報じられた。興味深いのはその帰路で、頂上までヘリコプターがやってきて、イモトを含むスタッフ全員を山麓まで運んでしまったことである。きわめて象徴的な現代の登山といえる。

もうひとつ、認知的側面では、移動速度が増すにつれ我々の外部世界の観察粒度が大きくなるという結果になっている。徒歩であれば道ばたの小さな花に注意を向けることもできたが、自転車となるとそれは見えなくなり、しかしながら町並みの一軒一軒を見ることができる。自動車や電車の場合、町並みは集合的な町並みとなり、全体的な印象を得ることしかできない。飛行機ともなれば、雲がなければ地表を航空写真のように俯瞰することができるが雲があればそれしか見ることが出来ない。もはや道ばたの草花をみることはかなわないことになる。

ただ、移動速度が増すにつれ、可能な移動距離も長くなり、我々は自宅やその周辺との違いの大きな環境を経験することが可能となる。こうした点についても、それを選択肢の拡大とみなした方がいいのだろう。人間の進化という観点から考えたとき、選択肢の選択によって異なる見えを示す環境に適応できるような人たちが適者生存していくのだ、と考えることもできるだろう。

選択肢の多様化、適切に利活用できる人が生き残る

さらに事例をあげてゆくなら、これらの他にも計算のための人工物、イメージを記録するための人工物、判断を行うための人工物等々の進化によって、いかに我々の経験世界が変化し拡大してきたか、そして我々の対応行動も変化し変質してきたか、さらにいえば進化してきたかを語ることができる。しかし、こうした具体的事例は切りがないので、ここで打ち切るとして、次に選択肢となる人工物の多様化とその利活用能力について考えてみよう。

人工物の進化は、ちょっと残酷な現実を見るようではあるが、利活用能力の低い一部の人たちを切り捨てる形で進んできたように見える。もちろん「らくらくホン」のようなアクセシビリティ的な対応は大切だし、これからも積極的に進められるべきだが、アクセシビリティ的な対応の対象者は、大量生産と大量消費の世界では、人工物進化のメインターゲットとはならない。

ロジャース(Rogers, E.M.)のイノベーター理論では、両極端として革新的なイノベーターと保守的なラガードを区別している。一般に高齢になると保守的な傾向を示すことが多くなるが、これは学習能力や記憶能力の低下とも関係しているだろう。ラガードの生き方には哲学的な意味で振り返るべき価値があるものの、彼らは時代が進むにつれて死滅してしまうだろう。世代はおよそ10-20年を一区切りとして交代してゆく。そして時代は、その時代を構成する人工物と、その利活用能力を備えた人間、いいかえれば人工物の進化に適応的対応をとれる人間、つまり進化する人々によって絶えず進行して行く。

人工物の進化には、ビデオテープやレーザーディスクとDVDやBDのように交代的な場合とアナログ時計とデジタル時計のように並存的な場合がある。文字入力の面でいえば、メソポタミア文明で使われていた粘土板と葦の筆という組み合わせは完全に駆逐され、筆や文房具、そしてタイプ入力に交代したが、筆や文房具、タイプ入力は現在並存している。広く人工物を見渡すと、完全に交代してしまう例はむしろ少なく、並存している場合の方が多いように思える。つまり、ユーザとしての人間にとっては選択肢の範囲が歴史的に拡大してきた、ということになる。

そして、多くの場合、若い世代はもちろんのこと、30-40代くらいまでは柔軟に環境に適応してゆく能力を備えている。人工物と人間の関係は、人工物の進化が人間の適応を牽引してきた形をとることが多いが、環境適応的な変化や変質を伴って、範囲が拡大する選択肢から適切なものを選択し利用してゆく世代が生まれ続けるかぎり、人間は進化しつづけるといえるだろう。その進化が遺伝しにまで組み込まれるかどうかは知らないが…。

同時に、エンジニアやデザイナーは、40代程度までの適応力の高い世代をメインターゲットにして人工物をデザインしてゆくことになるだろう。もちろん同時にアクセシビリティの考え方で対応してゆく必要はあるだろうが、数の論理の故に、そうした人工物がメインストリームになることは少ない。

人間が何らかモチベーションをもち、目標をもって行動する限り、その時点で手に入る人工物に完全に満足することはできない。それがデザイナーのモチベーションにつながって人工物は進化し、さらに人間は進化してゆく。これが今回のまとめということになる。

公開: 2019年1月15日
著者: 黒須教授