UCD関係者は難解さから逃げるな

「人間中心設計の基礎」に対し、巷ではむつかしいという意見が結構あって、著者として驚いている。短絡的な結論として、今の読者はソフトな食事を好み、歯が丈夫ではなくなったんじゃないか、と考えるようになった。

  • 黒須教授
  • 2016年12月9日

読者のアタマに優しい本

2013年に出版した「人間中心設計の基礎」は、おかげさまで結構売れている。しかし、書評や巷の評判では「むつかしい」という意見が結構あって、著者として驚いている。評価に賛否のある「人間中心設計入門」が企画されたのも、実は、シリーズ編集者の間にそうした意見があったからだ。

僕自身、「人間中心設計の基礎」が難しくないとは思っていない。結構歯ごたえがあるとは思っている。しかし、いろいろ考えた結果、著者としての短絡的な結論として、今の読者はソフトで食べ心地のいい食事を好むようになってしまっていて、そもそも歯が丈夫ではなくなってしまっているんじゃないか、と考えるようになった。

もちろんこれは比喩であり、今の読者の多くは、たとえ内容が薄くても、わかりやすく書かれた本を読んで、つかの間の読後感を味わい、勉強した気分になるという傾向を持っているのではないか、ということだ。そして、自分の頭で考える習慣を放棄して、すーっと頭に入ってくるような文章を好み、そこに書いてあることをベースにしてその先を自分で考えてみようというモチベーションを持っていないのではないか。端的にいえば、知的水準が低下してきているのではないか、などと考えるようになった。もしそうだとすれば実に嘆かわしいことなのだが、もしかするとそうした傾向が現実にあるのかもしれない。

ネットにはいろいろな情報があふれていて、検索するだけでかなりの情報を得ることができるし、Yahoo!知恵袋のようなサイトもいろいろあるが、そうした状況に慣れきってしまったために自分から元の情報(多くの場合は書籍かPDF)を探索し、それを読んで考える、という知的習慣すら身につけ損なってしまったのではないか、と思う。

もちろんそうした現状を作ったのは、読者の側だけに責任があるのではなく、著者の側にも相応の責任がある。売れる本を書きたいという気持ちは、著者であれば誰でも持つものだろうが、だからといって水で薄めたような本を書いて読者の姿勢に迎合することは望ましくない。ストレートより水割りの方が口当たりがいい、というのは確かなことではあるが。

例に出して恐縮だが、Kahneman, D.の”Thinking, Fast and Slow”は、原著で499ページもあり、訳書である『ファスト&スロー』ハヤカワ・ノンフィクション文庫は上下2分冊になっている大著である。しかし、読んだ人はわかるだろうが、その書き方は沢山の具体的な説明が入っているため、とても冗長なものになっていて、骨だけにしてしまえば100ページくらいにはできるだろう、と思われるものだ。

僕の印象では、最近のアメリカ人の書いた本にはこうした形で分厚くなってしまったものが多いようだ。とにかく内容密度が低い。反対に、たとえば「われ思う、ゆえにわれあり」で有名なDescartesの方法序説は、翻訳でもたった137ページである。それだけで、あの歴史的な評価を得たのだ。もちろん、昔と今では出版を取り巻く状況は全く違っているけれど。

表現の難解さ

ものごとを正確に表現しようとすると、抽象的で難解な表現になってしまうことがある。特に紙数が制限されている場合には、そのエッセンスを書こうとするために、むつかしく見えるような書き方をしてしまうこともある。「人間中心設計の基礎」の場合は、出版社にページ数の上限を設定されていた。ページ数は価格に跳ね返るし、価格は売れ行きにも関係するからだ。そんなわけで内容を削り、なんとか所定のページ数に納めた結果があの本である。もう少し丁寧に書きたいと思ったところは多数ある。しかし、理解してくれるだろう最小限の情報に絞って執筆したので、たしかに読むに難い(堅い)本になってしまったかもしれない。

僕自身、物理とか数学の話になると、ブルーバックスのような所謂啓蒙本に頼ることは多い。しかし専門の領域についてはもちろんだし、関連した領域については啓蒙本に頼ることはしない。さらに、学会の通説となっていることでも、ちと怪しいかなと思われることについては、その原典を入手し、場合によっては翻訳本だけでなく原書も購入する。

そりゃ研究者と一般の読者とは違うでしょうといわれるかもしれない。それは確かにそうなんだけど、近頃の啓蒙書流行の傾向にはやはり首をかしげざるをえない。みな、そんなに努力をしなくなってしまったのだろうか。そうは思いたくないのだが、もしかするとそうなのかもしれない。

ステーキを食べよう

ともかく、時にはハンバーグだけでなく、ステーキを食べてみるようにしてほしい。ステーキにはステーキなりのおいしさがあるのだし、UCD関係者の皆さんが全員総入れ歯になってしまった筈はないのだから。