新しいものと使い勝手

  • 黒須教授
  • 2000年10月23日

新しい製品は人々の購買意欲をそそる。私もその例外ではなく、というかむしろ新しいものフリークとでもいうべき人間で、パソコン雑誌で新製品紹介を読んだり、店頭で新しい製品を見かけると、もう腹の中がうずうずしてきて、ハッと気がつくとそれを手にしている、と、まあそこまで無節操ではないが、それに近い傾向はある。

なぜ人間が新しいものに惹かれてしまうのかという点について、欲求の心理学は新奇性、つまり新奇なものをもとめる欲求(need)があるのだ、と説明している。もちろんこうした形で、人間行動のいろいろな傾向にたいして一つ一つ何とか欲求という名前をつけてゆくと、もっともらしく聞こえるが、ロジカルには同義反復にすぎない、という側面もある。ただ、新奇性欲求については、生態学的な説明として、たとえば同じ土地を耕しつづけていると土地がやせてきてしまうから、開拓といって新しい土地を求めることには意味があるのだとか、あるいは身近なところで配偶者を求めていると、いずれ近親交配によって遺伝的に問題が発生してくる可能性があるからだといった説明も可能であろう。もっと基本的なところでも、現状に満足しているだけでは進歩がないから、人類が進化の道筋をたどるための必然的要件として、そうした欲求が備わっているのだ、という説明も可能であろう。

そうした意味では、消費者に新奇性欲求があるからこそ、機器やシステムは進歩をつづけ、より効果的で効率的な生活を営むことができるようになっているのだ、と考えることができる。たしかにそうした形で、機器やシステムは、新しい機能を追加し、性能を向上させてきた。たとえば、パソコンの劇的な発展は、人々の持つそうした基本的欲求が推進力になってきたといってもいい。

しかし、それが本当の意味で機器やシステムの進歩につながっているのか、という点になると、いやちょっと待てよ、という気持ちも起きてくる。新しいものは必ずしも使い勝手が良いとは限らない、という命題は、ある程度消費者を経験していれば、誰でももっている普遍的なものだろう。また、新しいものの出現によって、それまで親しんでいたものが市場から消えてしまうことに悲しさや不便さを感じることもしばしばある。個人的な比喩としては、リンゴのひとつであるインドリンゴが王林の登場によって姿を消してしまったことはとても残念に思っている。機器の例をあげれば、たしかにデジタルビデオは画質が良いのだが、それまで慣れ親しんできたHi8のカメラがほとんど姿を消してしまったことには疑問を感じているし、石油のクリーンヒータというのも、その燃費の安さにもかかわらず姿を消してしまって残念に思っている製品の一つである。

新しい製品の場合、一般にそれまでのものに比較して、性能が向上するか新しい機能が追加されている。性能の向上というのは基本的に受け入れやすいものだが、新機能についてはしばしば問題をともなっている。メーカの方が良かれと思ってつけた機能がユーザの期待に合致していないことが多いからである。特に、機能的にほぼユーザの要望を満たしている製品がバージョンアップをした場合には、こうしたことが起こりやすい。ワープロソフトなどはその典型であり、ワープロとしての基本機能は、すでに何年か前に一応確立されているといってよいだろう。しかし、メーカとしては、それでは商売があがったりになってしまうので、インターネットとのリンクなどの新しい側面を次々に追加して新バージョンを市場に送りだしてくる。しかし、そうした多数の新機能は、ユーザにとってありがたい場合もあれば、ありがた迷惑の場合もあるのだ。また、機能が増える、ということだけをとっても、その結果、ユーザ側では、目的の機能を選択するための選択肢が増えることによって、選択手順が増加するという問題や目的の機能の選択方法が分からないという問題も発生することになる。

個人的には、こうした状況を回避するために、ソフトウェアの場合、モジュール性をしっかりとさせ、ユーザが自分にとって必要と思われる機能だけを選んで「マイモジュール」を設定して利用できるようにする、というやり方があるように思っている。まあ、そうしたマイモジュール機能もまた新機能の一つであるから、それが入ることによって、混乱させられてしまうユーザも出てくることになるとは思うのだが・・・。