ジェンダーとユーザビリティ

  • 黒須教授
  • 2002年8月26日

人工物のデザインが”Better Design for All”を指向すべきものという立場に立つと、それはいわゆるユニバーサルデザインの考え方を拡張してユーザビリティデザインの理念的目標としたものであり、ユーザビリティはそのための実践的アプローチとして考えられる。このとき、この”All”という言葉の中には、従来ユニバーサルデザインが主たる対象としてきた障害者や高齢者だけでなく、性別の問題や文化や言語の問題、身体特性の変動幅の問題、一時的な困難さの問題など、さまざまな多様性が含まれてくる。いいかえれば、さまざまな人々が自分のやりたいことを困難なくできるようにすること、これがユニバーサルユーザビリティの目標である、といえる。その意味では、ユーザビリティの問題は、多様な人々がそれなりの生活権や生存権を主張する権利獲得の戦いの問題である、ということができる。

フェミニズムは、そのような戦いを続けてきた。様々な障害にぶつかりながらも、女性が女性として、また人間として、自ら望ましいと思う生き方を送ることができるように、社会を改革するための戦いを行ってきた。しかし、その戦いの中で、人工物という視点からの戦いは意外に少なかったのではないかと思っている。

本来、性に関わる問題は男女それぞれに存在している。その意味では、ジェンダーの問題をフェミニズムの視点と同一視することは適切とはいえない。しかし、歴史的、社会的には女性が男性に抑圧されるという図式が多く見受けられたため、ここではフェミニズムの視点から人工物のユーザビリティを考えてみることにしたい。

まず日本社会に固有の文化的所産として、夫婦箸や夫婦茶碗がある。なぜ女性用が小さいのか。たしかに平均値的に見れば、女性の手の方が小さいかもしれないし、女性の方が小食かもしれない。しかし女性にも個人差があるし、男性にも個人差はある。とすれば、それを性に関連づけてデザインするのではなく、身体特性の差異に関してデザインすれば済む話ではなかったのだろうか。トレーナーやTシャツがS,M,L,LL,XLと分かれているように、あるいはジーンズがインチでもってさまざまなサイズバリエーションを用意しているように、自分の手の大きさや自分の食の量に応じて、適切な大きさの箸や茶碗を選べるようにしておくべきではなかったのか。

最近は女性客が増加したことが一つのきっかけとなって状況が変化しつつあるが、旅館の女性用の浴場が男性用のそれよりも小さいというのもおかしな話である。男性は足をのばしてゆったりと浸かり、女性はつつましく足を抱えて入ればいい、とでも考えていたのだろうか。もっとおかしいのは女性用のトイレである。これは旅館やホテルに限らず、オフィスや公共施設でも同様なのだが、全体スペースを男女で同一に設計すればそれで平等なデザインができたと考えられているようである。言うまでもないことだが、男性は小用をする際に、個室トイレに入ることは稀である。普通はいわゆる立ちションスタイルで男性用小用器で用を足す。これはスペース効率も高いし、また男性の場合は前ファスナーを上下するだけで済むので時間的にも早く済む。それに対して女性用トイレはすべて個室式である。したがって、全体スペースが同じであれば、多少時間のかかる女性に対して、より少数の便器しか提供されないということになる。そのため、映画館やコンサート会場では休憩時間になると、女性用トイレの前には行列ができることになる。これなどは、性に関するユニバーサルデザインの問題として、もっと強く認識されるべきではないだろうか。

このほかにも似たような事例をあげてゆくと数限りなく列挙することができる。こうした結果は、そもそも企業の企画部門やデザイン部門に女性が半数近くいないことが原因の一つだろう。男性を中心とした企画担当者やデザイナーが、女性に対する配慮の欠如した状態で、機器やシステムや建築環境などのデザインを行っていることがそもそも間違っている。たまに女性プロジェクトチームというものが編成されて、女性の視点からきめ細かい感性を生かした製品企画をしました、というようなフレーズで新製品が紹介されることがあるが、それこそ差別的な行為だと思う。

利用者の立場に接近し、その行動を調べ、意見を聞き、その上でデザインすることがユーザビリティデザインの基本である以上、そのアプローチを忠実に実行しているなら、このようなジェンダーに関してねじ曲がったアプローチや産品は生まれてこないはずである。たしかに、人間の中に存在する多様なバリエーションについて常に配慮を持ち続け、実践していくというのは大変なことである。だが、ユニバーサルデザインというのは、本来、そうした大変な理念であり、ユーザビリティデザインというのは、大変な仕事なのである。