エルゴノミクスデザイン

エルゴノミクスとは人間工学の意味である。人間工学というのは、機器やシステムを人間の特性に適合させることを目的として人間の心理的身体的特性を明らかにし、またそれを機器やシステムの設計に提要するための方法論を研究したりする分野である。そこでエルゴノミクスデザインというキーワードがうまれる。つまり、人間の特性に適合したものをデザインするということになる。

ただし、エルゴノミクスデザインといわれるもののほとんどは、人間の身体特性に適合させることを目標としている。その背景として、人間工学の特徴的分野としてアンスロポメトリー(anthropometry)、すなわち身体計測学が注目されたという事実がある。最近の人間工学は認知人間工学など人間の内的な特性にも注目するようになったが、一昔前は人間の身体的生理的特徴に関する研究がその研究の中心を占めていた。エルゴノミクスデザインの起源は、その時期の人間工学にあるといってよい。

エルゴノミクスデザインの典型的な作品には、まず中心で左右に分割されたキーボードがある。この考え方はかなり以前からあり、現在はマイクロソフトなどから製品化されているし、日本のトロンプロジェクトでも同じようなものが提案されたことがあった。要は、人間の左右の腕は、肘を両脇につけた状態で手前に寄せると平行にはならず、カタカナのハの字のような形になる。そうであれば、一般のキーボードのように、キーを矩形状にするのは不自然であり、それぞれの腕の方向に直交するようにした方がいいということになる。その結果として、左右の手で担当するキーを二分割し、逆への字のような形にしたデザインのキーボードが作られる。この考え方はある意味で合理的ではあるが、全体のスペース効率が悪いためノートパソコンではまず採用されることはないし、デスクトップでも利用している人は少ないと思われる。その理由として、値段が高くなってしまうこともあるが、人間の手首は柔軟なもので、多少曲げていてもちゃんとキーボードが打てるということが考えられる。

また、エルゴノミクスデザインによるマウスというものもある。掌にすっぽり収まる形を考えると、それは左右対称な卵形ではなく、右手であれば左側が少し伸びたような形になるはずであり、したがって、そのような形をしたマウスの方が使いやすいだろう、という発想である。しかし、そのような形をしたマウスが必ずしも使いやすいとは限らない。私の経験では、通常の卵形ないし長円形のマウスで、ことさら不便を感じることはない。さらに左利きのユーザのことを考えると、製品を二系統作る必要がでてきて、在庫管理上も面倒である。

以前購入したハサミでエルゴノミクスデザインのものがあった。これは右手による使用を前提にしたもので、ハサミを握る指の形にそって握りの部分がデザインされていた。しかし、これは大変使いにくいものだった。ハサミを持ってから、わざわざその形に合わせて持ち直さなければならなかったからだ。ずっとハサミを握ったままの作業をするならともかく、ハサミの使用はしばしば持ったり外したりを繰り返すものだ。その意味で、握った状態だけを考えてデザインされたハサミは利用状況を部分的にしか考えていなかったといえるだろう。

最近購入した風呂の湯汲みもエルゴノミクスデザインになっていたが、実は大変不便なものだった。人間の手は握った状態にすると人差し指で作る輪と小指で作る輪の大きさが異なる。後者の方が小さいのだ。そこに着目して、その湯汲みでは、握りのデザインについて、桶に接している部分を太めにし、テールの部分を細めにしてあった。これを使うとどういうことが起きるかというと、風呂に入っていて石けんの付いた手でその握りをもってお湯を汲もうとすると、その握りが石けんのためスルッと逃げてしまうのだ。これをデザインした人は、おそらく実際に風呂に入って実証実験をしなかったにちがいない。

エルゴノミクスデザインについて否定的な例証を挙げてきたが、そのアプローチを全面的に否定しているわけではもちろんない。優れたエルゴノミクスデザインは沢山ある。たとえばアーロンチェア(Aeron Chair)という有名な椅子がある。一見したときの形は必ずしも格好良いとは言えないが、実際に座って仕事をしているともう他の椅子には座りたくなくなってしまう程だ。自動車のシートやパネルのデザインにもエルゴノミクスデザインが効果的に実践されたものが多い。

エルゴノミクスデザインを活かすも殺すも、大切なのは、それを使う現場できちんとした実証実験をすること、本当の現場で利用状況を検証することだ。そうした検証をして、改良を重ねてゆけば本当に使いやすいエルゴノミクスデザインが生まれるだろう。単なるアイデアだけのものにエルゴノミクスデザインという冠をかぶせるのは、エルゴノミクスに対する誤解を広めるだけである。

公開: 2003年5月6日
著者: 黒須教授