建築家とユーザビリティ

あるギャラリーで著名な建築家の展覧会があった。イラストや模型、ビデオなどで彼の作品を紹介してあったが、気になったのは外観のデザインに関するものが展示物の殆どをしめていたことだった。それらの展示物では、全体の構造が自然環境の構造をいかにうまく利用しているか、外観がいかに対比的ないし調和的に周囲の景観に組み合わさせているか、そしてその構造がいかに斬新か、といった点が強調されていた。しかし、内部の構造がどうなっているか、それが利用者にとってどのように見えるのか、利用者がそこでどのように行動するのか、といった点については全く触れられていなかった。少しだけ内部の景観がビデオで紹介されていたが、カメラの視点は人間の歩行とは関係なく、まるでヘリコプターで移動するかのように内部を動いてしまっていた。この人は利用者の立場や視点というものを設計に際して考慮しているのだろうか、という素朴な疑問が浮かんだ。

美術館の設計を例にとりあげると、既存の美術館でも、利用者の立場から良くできていると評価できるものは少ない。ある部屋に入ると、複数の出口のあることが多い。それは利用者の行動の自由を保証していると考えることもできるが、どちらに行くとどうなるのかが予想できないため、利用者としてはそこで迷いが生じてしまう。複数の出口の大半が袋小路になっていて、再び元の部屋に戻ってくるようになっていればまだしも、その先にまた出口が複数あったりすると、どのように歩けば見落としなく移動できるのかが分からなくなってしまう。そうした構造がワンフロアだけならまだしも、階段で複雑に複数階にリンクしていると、出口の方向さえ分からなくなってしまう。もちろん、移動のことだけを考えていれば、頭の中で方位を確認しながら歩けばいいので、そんなに迷わないかもしれない。頭の中に、その内部構造のメンタルマップを構成することもできるだろう。しかし、美術館の中で利用者が行うことは移動ではなく展示品の鑑賞である。そちらの方に注意が集中していると、当然、建物の内部構造に関して配分される認知的リソースは少なくなってしまう。であれば、内部構造はできるだけ分かりやすく設計しておくか、あるいは地図を随所に配置して、現在位置の確認が容易にできるようにしておくべきだろう。

デパートなどで、ある階に来たとたんエスカレータの位置が変わってしまい、それを探すのにとまどってしまうこともある。トイレを探していて見つからずに往生することもある。こうした問題はサイン計画の問題でもあるが、サインを表示しておけば構造はどうあっても構わないという訳ではない。

建築の分野ではよく完成模型を作るようだが、模型を上から俯瞰したときと、その内部に入ったときでは、認知の仕方が全く異なる。その意味で、内部構造の設計に際しては、利用者の移動とそれに伴って視野に入ってくる情報の動的な変化を事前にきちんと把握しておくべきである。最近ではCGを容易に利用できるようになったので、利用者の移動とそれにともなう視覚情報の変化をシミュレートするようなシステムによって、その認知的負荷のチェックを事前に行うべきである。また、コンペなどにおいても、そうした認知的負荷の少なさを一つの評価基準にすべきである。もちろん建築物の種類によっては内部を巡るときの楽しさも重要なポイントだろう。小さな入り口から大きな教会に入った時のように視覚的感動を与えることも大切なことがあろうし、歩いてゆくにつれて景観が変化する楽しみを与えることも良いことだろう。しかし、そのために利用者の認知的負担を高めるようなことがあってはならない。

公共建築の場合には、管理者次第でその審美的なポイントを保持しつづけることも可能である。しかし住宅の場合には、人間はいつまでもモデルルームのような室内に暮らしているわけではない。そこには様々なモノが入り込む。そのやり方は利用者責任ともいえるが、ある程度設計段階で予想することもできるはずである。とすれば、設計段階で一般の人々の暮らし方を予想して、そこに様々なものの設置のされ方を考え、そこで行われる人間の行動を考えて、それに適合したデザインにすることが出来ないはずはないだろう。動線の配慮、収納容量についての配慮、ぼんやりしたり本をよんだり寝ころんだりといった人間行動についての配慮などは建築の原点であるはずだ。

建築空間は人が行動する空間である。行動のしやすさや認知の容易さを忘れ、デザインの奇抜さや新鮮さだけを競うようなことがあってはならないと思う。そして、建築界に対しては、そうした点にきちんと配慮したデザインが高く評価されるような世界になってほしいと思う。

公開: 2003年5月26日
著者: 黒須教授