機器や設備の設計と人のこころ

  • 黒須教授
  • 2005年9月20日

知人のところに泊まり、大船から東京に出ようとしたときのこと。東海道線のグリーンに乗ろうと、ホームのグリーン券発行機の前にたった。見ると、SUICAグリーン券と磁気グリーン券という二つの選択肢がある。磁気グリーン券というのは表現がいまひとつわかりにくいが、普通の切符のことらしい。SUICAにグリーン券情報が保存されるのは初めてみたので、それを購入してみることにした。この選択画面と路線の選択画面のどちらか先だったからよく覚えていないが、ともかく次に路線の選択をした。東海道線を選択した。それなのに次の目的地選択画面で品川や東京が表示されない。悩んだ。しかたなく近いところで大崎あたりを選ぶことにした。ともかくそれでSUICAにチャージされたらしい。

次に知人の番。磁気グリーン券の方を選択肢して路線を選択するも、目的地がみつからないらしい。それで路線選択と目的地選択の画面を何回か往復していた。

その時、後から声がかかった。「すみません、急いでいるんですけど」。見ると40代くらいの男性が四人並んだ列の三番目にいて身をのりだして声をかけていた。「すみません、二人いるんで時間がかかってます。それと機械がよくわからないんで」といった。男性は下を向いて列にもどった。

急いでいるのはお互い様だ。別に二人して機械で遊んでいたのではない。そのことは見れば分かったはず。それなのにどうして、ああいう声のかけ方をしたのか、そこが分からない。こちらが操作に迷っていることが分かったなら、助けにきてくれても良かったのではないか。いや、それを「遠慮」してしまったのだろうか。このあたり、自分の忙しい状況と苛ついた心理からでたものではあろうが、何か余裕のなさを感じた。そして、こういったことは、駅だけでなく銀行などでもしばしば目にしたことがある。最近は係員が脇にたっていることが多いし、複数台並んでいて、空いたところに入ってゆけるようになったから、こうした気まずい状況はあまり発生していないようだ。しかし、グリーン券販売機は一台しかなく、係員もいなかった。ともかく「仕組み」で解決するというのも一つのやり方だが、「こころ」の持ち方で解決するというやり方を日本人は取れないのだろうか。

ともかく列車に乗ってから、なぜ操作に時間がかかったのかが分かった。検札にきた車掌が僕のSUICAをチェックして「次からは磁気グリーン券を購入してください」という。何故かを聞くと、SUICAグリーン券は、湘南新宿ライナーでしか使えないのだそうだ。だから品川や東京がでてこなかったわけだ。ふーん、とは思ったが、それだとするとグリーン券販売機のインタフェース設計が最悪ということになる。SUICAグリーン券が東海道線などでは使えないという事情がそもそもなぜ生じているのかも分からないが、ともかくそういう事情であるならば、画面インタフェースでは最初に路線を選択させるべきだ。そして湘南新宿ライナー以外を選択したら、次の券種選択では磁気グリーン券だけを候補として表示すればいい。それだけのことだ。インタフェース設計のごく基本的な考え方だ。

このケースの場合、インタフェース設計と人々のこころの対応のあり方の両方に問題があったといえよう。インタフェース設計は「やればできる」。でも人のこころを変えてゆくことはむつかしい。とはいえ、本当にユーザブルな社会には、これらの両方が必要なように思う。

違ったケースをデンマークで経験した。コペンハーゲン駅のとなりのローカル駅からコペンハーゲンの中央駅まで電車で行こうとして自動販売機の前にたった。ヨーロッパによくあるZone表示になっている。何ゾーンをまたいでゆくかによって料金が決まる。そこまでは過去の経験から理解できた。しかし、沢山あるボタンのどれを押せばいいのかがわからない。なぜならボタンに付いている表示がすべてデンマーク語だけなのだ。日本の券売機に見られるように英語併記や英語表示モードの選択がない。ユニバーサルデザインになっていないのだ。ちょっとこまって途方にくれた。

すると近くに座っていた女性がやってきて助けてくれた。どこまで行くの、と聞き、それだったらこのボタンを押しなさい、と教えてくれた。私がコインを入れるまで見届けていてくれた。そう、この機械は紙幣を受け付けないのだった。紙幣なら持っていたのだが、コインの持ち合わせが少なかった。不足した。またまた困ってしまった。するとその女性は自分の財布から不足分を出してくれた。いいのよ、と言って。ありがたく、そして申し訳なかった。役にはたたないと思ったが、日本の硬貨を記念にさしあげた。そして笑顔で感謝した。

これ例ではインタフェース設計には問題があった。しかし人々のこころによってその問題は解決した。実はデンマークでは、機器や環境の設計が必ずしもバリアフリーやユニバーサルデザインに適合した形には作られていなかった。駅のホームにおりるエレベータはないし、エスカレータも故障してとまっていた。ホームには駅員がいなかった。電車とホームの間の転落防止のために電車からプレートがでてくるようにはなっていたが、電車の床とホームの高さには大きな段差があった。道路でいえば横断地下道があったが、そこには車椅子で通れるようなスロープがなかった。あったのは自転車用の急なスロープだけ。そんな感じだった。福祉国家として有名なデンマークの機器や環境の意外な貧困さにはいささか驚かされた。しかし、その女性との出会いで一つのヒントを得たような気がした。機器や環境や設備を整えることも大切だが、それ以前にまず人々のこころの出来具合がちがう。そんな気がした。まずは人々のこころによって支える。それを補う形で機器や環境が用意される。そんな社会なのではないかと考えた。もちろんたった一日の滞在にもとづいた印象だから間違っている可能性はあるが、私にとっては大きな示唆だった。

もちろんデンマークの機器がこのままでいいとは思われない。人のこころも大切だが、それだけでは人がいなければどうしようもない。僕の場合、深夜で誰もちかくに人がいなかったらいったいどうしたらいいのか。やはり券売機は紙幣も受け付けるべきだし、表示にはいまや世界共通語となっている英語を併記すべきだとおもう。

ともかく日本とデンマークのこれらのケースは私にとっては対比的で興味深い事例だった。グリーン券販売機はともかく、一般の機器や設備の開発において、日本はそれなりに進んでいると評価していいだろう。しかし日本には十分なこころがないような気がする。それと正反対なケースがデンマーク。・・少ないケースをもとに強引に一般化を試みるとこういうことになる。

そして、当然ながら結論は、その両方の良いところを合わせることである。人々のこころがまず最初にあるべき。でも、それでは対応しきれない場合を想定し、機器のインタフェースはきちんと改善しておく。これがユーザブルな社会のあり方ではないかと考える。