いい事例が欲しい

企業の現場でユーザビリティ関係者と話しをしていると「何か人間中心設計を取ることが有効だと実証できるような事例はないですか」という話題になることが多い。事例があれば周囲を容易に説得できるからだ。また、企業幹部などと話しをしていても「人間中心設計を実施して有効だったという事例はありますか」と聞かれることは多い。あるなら取り入れることを検討しましょう、というスタンスなわけだ。

事例があればたしかに納得してもらいやすいだろう。ただ、その前に、相手を説得するにはあまり役にたたないが、そうした発想に含まれている問題点を指摘しておきたい。

たとえば広告費用を取り上げてみよう。広告に関する費用対効果の議論は結構なされているのだけれど、厳密な意味で、それが本当にどこまで有効なのか、明確に示しているデータは少ないと思う。広告代理店が提示するデータは、当然ながら彼らにとって有利に作用するものだ。それにもかかわらず、企業関係者は広告のために大金を投入しつづけている。イメージだけで実際の商品を表していない広告もあれば、単に面白さやアイキャッチだけをさせる広告もある。広告を見ていても商品名を憶えないこともしばしばある。似たような広告が大波のように押し寄せてくるために、どれがどれだか分からなくなっているような状態。それにもかかわらず広告に莫大な費用がかけられている。

こうした状態は、個人でも組織でも、それなりに定常的な状態に達している場合、それを打開したり変革したりすることに強い不安を覚える、という人間心理の特性に帰することができるだろう。人間のもっている一種の保守傾向ということもできる。

もうひとつ、売り上げ分析を取り上げたい。企画段階の市場分析などは結構エネルギーをかけてやっている割に、製品をリリースした後の売り上げの分析をきちんとやることは少ない。特に売り上げが予想を下回ったような場合には、その責任の所在を追求する雰囲気になってしまうためか、あまり手がつけられていないようだ。デザインが悪かったのか、性能が今ひとつだったからか、機能に魅力がなかったからか、価格設定を間違えたからか、宣伝に失敗したからか・・考えていけばいろいろな要因が関連している筈だ。

ただ、ここで注意すべきは、そうした可能性のいずれもが、ユーザのニーズとの適合性に絡んでいるという点だ。ユーザがどのようなニーズをもっており、それに対して適切な要求定義を行えていたのかどうか、そこをまずきちんと分析すべきなのだ。さらに、その要求定義に適合した製品を開発することができたのか、それを適切な形で市場に投入することができたのか。こうした形でユーザニーズとの適合性という視点を重視しながら、失敗の分析をすれば、同様の失敗を繰り返すことは少なくなるだろう。ユーザのニーズを的確に捉える活動、すなわちユーザ工学のアプローチをきちんと取っていたとしたら、失敗の可能性は低くすることができたはずだからだ。

冒頭に述べたように、こうした形の反証は、ネガティブエビデンスであって、ユーザ工学のアプローチの効果を立証するポジティブエビデンスではない。ただ、前者のエビデンスをきちんと分析する姿勢を取らずにおきながら、後者だけを求めようとする姿勢にはやはり問題がある、そう言いたい。本当に虚心に企業利益を考えるなら、両方のエビデンスをバランス良く考慮することが必要だからだ。

さて、問題のポジティブエビデンスだが、ここには一つのトリックがある。企業が慎重な姿勢を取りすぎてきたあまり、従来的な設計のパターンから脱却せずにきたことから、ユーザ工学のアプローチ、すなわち人間中心設計のアプローチをとった事例がきわめて少ないというのが実態なのだ。ユーザビリティの専門家はそのトリックに気が付いている。しかし企業の経営者やマネージャはそのトリックに気づいていないし、その問題、つまり自分たち自身の問題点を理解しようとしない。このために非生産的な堂々巡りが続いてしまうことになるのだ。

もちろんそうした事例が全くないわけではない。だから僕は問われるとそうした事例の話をすることもある。しかし従来のアプローチによってヒット商品の開発を経験した人たちだと尚のこと、従来アプローチから離れようとしない。数少ない事例の話をしても「ああ、そうですか」で終わってしまうことが多い。「それはそれで分かったけど、これまでのやり方でもそれなりにやってこられたのだし」・・おそらく彼らの頭の中にはこうした弁明が流れているのだろう。成功率の歩留まりを上げるための方策を真剣に考えるなら、ちゃんと聞く耳を持てるはずだと思うのだが。

なかなかに難しい攻防なのだ。

公開:2006年10月3日
著者:黒須教授