魅力型製品と当たり前型(実質的)製品
製品には、魅力型製品と当たり前型(実質的)製品がある。魅力的品質は当たり前品質をカバーすることはできない。当たり前品質が飽和していれば、新規性などの魅力的品質で勝負するの仕方ないが、そうでない場合には開発の主力は当たり前品質の不足部分に充てるべきである。
先日、HCD-NetのサロンでNigel Bevan氏の講演などがあった後のパネル討論で、僕は司会の山崎先生が「新しさ」を強調されていたことに対し、失礼を顧みず、それに反論をしてしまった。そのココロは、まだまだ当たり前品質(実質的ユーザビリティ)が確保されていない段階で、新しさなどの魅力的品質を追求するのが適切だろうか、という点にあった。魅力的品質は当たり前品質をカバーすることはできない、という主張であった。
ただし、これには注釈が必要だった。山崎先生には大変失礼したことをここで紙面を借りてお詫びしたい。さて、魅力品質と当たり前品質に関する狩野論文(1984)では、テレビと置き時計をサンプル事例として取り上げているが、基本的には品質特性の一種として、どの製品にも適合できる特性という一般的な形で考えていたように思える。しかし、僕はここで製品によって、魅力型製品と当たり前型(実質的)製品があるのだ、ということを強調したい。したがって、議論をするときに、念頭においている製品のタイプが違うと議論がかみ合わなくなる。
ユーザビリティの活動をやってきた人たちは、基本的に当たり前品質の一つとしての利用品質(ユーザビリティ)に注目してきた。ところがユーザ・エクスペリエンスという概念が提唱されるようになってきて、それだったら感性的な魅力も、さらには魅力全般がエクスペリエンスには大切でしょう、というようになった。ここで注釈を入れておくと、僕が提唱した創造的ユーザビリティという概念は、ユーザビリティにおいて本質的な部分を見つければ、それが新規な魅力にもなるだろう、という趣旨であり、あくまでも本質が何かということをいいたかったのだが、どうも魅力的品質と同一のものという誤解を招きやすかったようなので、現在は使わないようにしている。
さて、ユーザビリティという当たり前品質をちょっと置き去りにしてしまっても、感性的魅力という魅力的品質を重視すれば、そして場合によって魅力的品質が当たり前品質の低さをカバーしてくれても、トータルとしてのユーザ・エクスペリエンスが高まれば、それでいいのではないか、と考えているかのような発言が目立ってきた。これは大変危険なことである。改めて言っておきたい。魅力的品質は当たり前品質をカバーすることはできないし、カバーしようとするような試みは諫めるべきなのだ、と。
当たり前型の製品として、ソフトウェアではたとえばOSがある。僕の場合でいえば、現在は9台のパソコン(多くは眠っていることが多いが)を持っていて、OSとしてはXP,Vistaそれに7を使っている。メインマシンのハードはCore i7 950 @ 3.07GHzで、メモリもHDも余裕の仕様。まあ問題といえばアプリを沢山インストールしてあること位なのだが、それが「問題」になるのは、本質的にOS(この場合はVista)の能力が足りないからなのだ。その際、デスクトップにアイコンを沢山置くのは良くないですよ、というような議論は、現状のOSの能力を前提にしたものであって、「本来どうあるべきか、どうあったら使い勝手が良くなるか」の議論ではない。
MacやLinuxはほとんど使っていないので、結果的にWindowsをやり玉にあげることになるが、このマシン、たとえばKing OfficeのSpreadSheetをたちあげようとすると45秒待たされる。現時点で最強のハードを使っているつもりなのに、だ。二つ目のファイルを立ち上げるときには2,3秒でファイルが開けるが、最初の起動が遅い。もちろんデフラグもしてある。MSのOffice 2003もつかっているが、Excelでもだいたい同じようなものだ。この45秒間のイライラ、たぶん僕だけでなく、皆さん、仕方ない、Vistaは遅いので有名なんだから、と諦めておられるのではないだろうか。
もちろんユーザとして現状を仕方ないからと是認して、その中で最善の策を講じるやり方もある。しかしWindowsができてからもう何年になるのだろう。その間、MSはエアロだとかリボンだとか、インタフェースが使いやすくなりますよ、というような魅力的な新規提案ばかりやってきて、当たり前品質に関する肝心な改善を怠ってきている。この怠慢さがユーザに「あきらめ」の気持ちを植え付け、新規提案でOSを評価するような姿勢を植え付けてきたのだ。そのあたりのMSの努力には感心するし、やり方の巧妙さには頭が下がるが、それでいいわけではない。絶対にない。
OSの起動のことだけを書いてきたが、そのほかにもいろいろある。ファイルコピーが遅いので、僕はFastCopyというフリーウェアを使っている。デフラグだってUltimateDefragを使っている。このように、僕だって仕方なく現状を是認して、そのなかでの最適アプローチを模索する姿勢をもっているが、それで満足しているわけではない。何が本質的に重要なのか、そのあたりをきちんと把握しなければいけない。OSは基本的に当たり前型の製品なのだ、ということを再認識する必要があるのだ。
他方、魅力型製品というのは典型的には化粧品や衣料品、食品などだ。これらの製品カテゴリーにおいては機能性や信頼性、安全性などの当たり前品質特性はすでに飽和しかけてきており、その意味で、その上にかぶせる魅力的品質で勝負しているわけだ。新商品の競争になっても仕方ない面がある。翻ってICT関連ではどうだろう。たとえばオーディオプレーヤについては、Walkmanの方が音質がいいとは言われつつ、市場の大半はiPODが占拠している。これは音質という当たり前品質については微差のレベルまで飽和してきており、当たり前品質の面では、オーディオプレーヤは既に飽和水準に近くなっているからだ、といえる。iPODのデザイン性が話題になり、Appleがそれを打ち出す戦略にでて成功したのも、そうした本質的側面に関する技術的進歩が前提となっている。
まとめよう。まず開発対象になっている製品が技術的に飽和しているかどうかを考えよう。まだ飽和していない時には、開発の主力は当たり前品質の不足部分に充てるべきである。他方、飽和していると考えられた時には、魅力的品質に注力していいだろう。
人間は新しさを好む。心理学的にいえば、新規性は内発的動機付けにつながる。新しさを好むということは、飽きやすいともいえる。だから浮気をするのであり、それは人間関係においても、製品に対しても同様に発生する。だから、新規性はそれだけで魅力的品質となりうる。しかし、しつこく繰り返すが、魅力的品質は当たり前品質をカバーすることはできないのだ。