こんなところにHCD 22-軍隊とHCD

軍隊を、HCDとの関係で考えた場合、問題にすべきは、基本となるのは兵士の人間性という点だろう。軍隊に限らず、集団における個人の行動を適切なものにするには、個人の自覚と強い意志の力が人間中心的な社会を構成するための要件である...

 皆さんは軍隊とHCDとがどう結びつくんだ、と思われるかもしれないが、それだからこそ、今回はこの関係について考えてみたいと思う。

 最近、精華大学で開かれたワークショップに参加し、それが終わってから北京の秋葉原といわれる中関村に行ってみた。ともかくその巨大さには驚いた。そこで、正規品なのかどうか疑いを持ちつつも中国語版のWindows 7 (350元)とか、DVD (1枚10元)とかを購入した。Windowsはちゃんとインストールできた。さてそこで購入したDVDの中に、最新のアメリカ映画の”Super 8″ by Spielberg, S. (2011)とイギリス映画の”Retreat” by Tibbetts, C. (2011)があった。

 本題はここからなのだが、どちらの映画でも、そこに登場する軍人たちは一般市民にとっては不可解な非個性的な強力な集団として描かれていた。Super 8では、列車の大脱線にかけつけた軍人たちは、それが重大機密である宇宙人を移送するためであったにせよ、一般市民をシャットアウトし、非個性的な、組織の一部になりきった行動をしていた。Retreatでも、最後にでてくるヘリコプターに乗った兵士は、いきなり一般市民である主人公を射殺した。たとえそれが重大機密らしい超危険な疫病を遮断するためであるにせよ、また命令であったにせよ、当人への説明もなしに、また隔離することも無しに殺してしまった。

 軍人がでてくる映画には三種類ある。ひとつは兵士でありながら人間性との狭間で悩む姿を描くようなもの、次は兵士であっても一般市民のようにまあ楽しそうに踊ったり食事をしたりしている姿を描くようなもの、そして最後が今回見たもののように、一般市民にとっては不気味としか思えず、あたかも別世界の生物のような動きをする集団ないしはその成員としての兵士を描いたものだ。

 兵士というのはいざ戦いとなったら、指揮命令系統にしたがって行動することを求められている。そうでなければ、指揮命令系統というものが意味をなさず、中枢部の考えを実現できないからだ。(こうしたシンプルな縦社会としての軍隊組織のあり方についての議論がひとつあるとは思うが)。そのため、入隊時の新兵訓練を描いた映画によく出てくるように、脱個性を推し進め、一つの細胞として行動するように訓練が行われる。制服というのは脱個性のための第一歩だし、命令に従った行動を反復的に行う訓練は、自己を放棄し、細胞となるための学習の場である。

 さて、特にアメリカの場合、様々な戦争や紛争に荷担してきた歴史のために、細胞としての兵士の行動は実戦経験で試され強化されてきているので、兵士たちの行動は、実に統制が取れている。いいかえれば何を考えているのか分からない不気味な存在になりうる。9.11の後、しばらくの間は空港に銃を持った兵士が沢山いたが、特に日本人の僕にとっては不快でもあり、不気味でもあった。そうした兵士、そして軍隊というものは、アメリカの一般市民はその存在を法的に容認しつつ、また自国防衛のためといいながらも、やはりどこか不気味な印象を持っているのではないだろうか、と想像する。それがSpielbergの映画にも表現されていたのだろう、と思う。

 ここで思い出さねばならないのは、社会心理学の実験で、ミルグラム実験と呼ばれているものや、スタンフォード監獄実験と呼ばれているものだ。http://www.ted.com/talks/lang/ja/philip_zimbardo_on_the_psychology_of_evil.html 後者はesという映画にもなったのでご覧になった方もいることと思う。これらの実験の契機は、元ナチス軍人だったアイヒマンがユダヤ人虐殺の罪で1962年にイスラエルで死刑になったことにある。その後、果たしてアイヒマンは冷血で血に飢えた悪人だったのか、あるいはナチスという組織のなかで業務を忠実に遂行しようとした官僚型の人間だったのか、が話題になり、これらの実験に至った。結果として、実験では、実験者が参加者に対して「責任をとるから」あなたは命じられた通りのことをやればいい、と言われたとき、人は冷酷な行為にも走ってしまうという結果が得られ、アイヒマンは生来の悪人というよりは、ナチスという社会体制の(ある意味で)犠牲になったのだと考えられることになった。その点で、アイヒマンという個人を処刑することにはユダヤ人としての感情はあっても、個人に責任を集約すべきことではなかったともいえる。同様なことはベトナム戦争におけるソンミ村虐殺事件やイラクのアブグレイブ刑務所事件など枚挙にいとまがない。

 これをまとめると、組織の命令を忠実に実行するように人々を仕立て上げるシステムの罪、そして命令を受ければ組織の責任に忠実たるために何でもやってしまう可能性があるという人間の弱さに帰することができるだろう。

 さて、HCDとの関係で考えた場合、問題にすべきは、基本となるのは兵士の人間性という点だろう。自己の倫理的規範を強くもっている人間がいて、組織からの命令であっても、それを自分の規範にもとづいて判断し、拒否できる人間がいるかどうかが問題になる。しかし、自己の判断にもとづいて行動するような兵士が沢山いたとして、それは軍隊として機能するのだろうか、という疑念が当然でてくる。もし、兵士の人間性が前面に出されたとしたら、一般市民への殺戮を防ぐことはできただろうか。一時的にはできたかもしれないが、そんな弱腰の兵士であれば、一般市民を装ったゲリラは容易に兵士たちを殺すことができるだろう。だから一般論でいえば、命令に従う以上、多少の犠牲はやむを得ない、という話につながっていく。戦線を離脱した兵士を処刑してしまうような軍隊という集団のなかで、そもそも自己の信念にしたがって行動できるのか、という話になる。

 また原子爆弾に限らず、爆弾やミサイルという大量破壊兵器は、ターゲットエリアにいた人々を問答無用で殺してしまうものだ。そのスイッチを押すことができる心理は、やはり命令にしたがう細胞でなければ困難だろう。

 そんなわけで、ちょっと結論を急いでしまうが、まずは、戦争という場が起きてしまうことに諸悪の根源があるといえるだろう。また、ナチスのような組織が人間性の弱さを逆手にとって、その成員に「何でも」やらせてしまうようになることに問題がある、ともいえる。戦争や戦争の可能性があれば、軍隊の存在が正当化されるし、軍隊の適正化のためには命令一下で行動する細胞としての兵士も必要とされるだろう。したがって、そうした動きを封じ込めるためには、たとえ弱腰と言われても、外交努力によって戦争をなくす、さらにいえば戦争やゲリラ活動の根源となっている自文化中心主義や文化的侵略、あるいは侵襲的経済活動などに対する配慮を行い、戦争の根を絶つ、ということが、結果的には軍隊に対するHCDといえるのではないか、などと考える。ただし、それは容易なことではない。

 そこで考えるべきは、集団が構成された時、集団の規範を常に自己の信念体系と比較して判断を下すような人間を多数派にすることが大事であり、そのためにはすべての人々がそうした強い自己規範と判断力を持てるようになることが鍵になるということだ。その意味で、現在の自衛隊は、弱体といわれていても、その程度でいいとも思う。むしろ強力な軍隊になって欲しくないと思う。さらに、企業活動においても、上司の命令を自己の判断基準にもとづいて判断する、いわゆる「扱いにくい奴」になることが大事だとも思う。

 したがって、軍隊に限らず、集団における個人の行動を適切なものにするには、個人の自覚と強い意志の力が人間中心的な社会を構成するための要件であると考える。集団は個人によって構成されている、というシンプルな事実を再確認する必要があるのだ。

公開: 2012年4月26日
著者: 黒須教授