刑法39条についての素朴な疑問

裁判で犯罪者の刑事責任能力が問われ、心神喪失や心神耗弱に応じて責任が軽減または免除される現状に疑問を持ったことが、筆者の今回の問題意識の出発点である。

  • 黒須名誉教授
  • 2025年12月29日

犯罪者への処遇

われわれ生活者が安心安全な生活を送ることを守る社会制度の一つが法律と裁判のシステムである。犯罪を抑止し、万一犯罪が発生した場合には、それを発見し、犯罪者を確保し、犯罪者に対して罰則を適用する、こうしたシステムは、われわれの日々の生活における経験を適切なものにする役割を担っている。

筆者は法学の専門家ではないが、一般の生活者の視点から生活の質を向上させたいという気持ちからこの原稿を執筆している。思い違いや知識不足の面があるかもしれないが、あくまでもひとりの一般人として書くことにするので、その点はご了解いただきたい。

筆者の問題意識は、犯罪者について裁判で刑事責任能力が問題となり、心神喪失や心神耗弱に応じて責任が軽減されたり免除されたりするという現状について、さて、それでいいのだろうか、と素朴な疑問を持ったことがその出発点である。大学時代に心理学を学んだ筆者は、精神疾患について多少の知識と経験があった、ということも、この問題に関心をもったことと関係している。刑法については少年の扱いなど、議論の余地のある部分がいくつかあるが、今回は刑事責任能力という点に絞って話を進めたい。

刑事責任能力

さて、そもそもこれが法律でどのように扱われているかというと、刑法39条で、以下のように書かれているだけである。

(心神喪失及び心神耗弱)

第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。

 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

これだけである。心神喪失と心神耗弱の定義も書かれていない。

そこで判例によって意味が確立される、ということになるのだが、戦前の最高裁判所に相当する大審院では、「心神喪失(責任無能力)とは、精神の障害により、事物の理非善悪を弁識する能力なく、または、この弁識にしたがって行動する能力なき状態をいい、心神耗弱(限定責任能力)とは、精神の障害が、上記の能力が欠如する程度には達していないが、著しく減退した状態をいう」という考え方が示されている(昭和6年(1931年)12月3日判決刑集10巻682頁)。

そして、責任能力は、「その程度によって、責任無能力(心神喪失)、限定責任能力(心神耗弱)、完全責任能力(心神喪失でも心神耗弱でもないこと)に分類」され、また「責任能力の有無や程度については、「精神の障害」という生物学的要素と、「是非弁別能力及び行動制御能力」という心理学的要素を総合考慮して判断する」という複合的方法をとっている」(袖長 2022)。

これが現在の日本における責任能力に関する考え方の大原則になっている訳だが、この大元には応報主義(報復主義)という考え方と、目的主義(功利主義)というふたつの異なった考え方が存在している。単純化してしまえば、前者は、「犯罪者はその行為の報いとして罰を受けなければならない」という考え方であり、後者は「犯罪者の再犯を防ぐことで社会を良くしていくべきである」という考え方である。たとえば江戸時代の刑罰は応報主義だったといえ、残虐な刑罰も課されることが多かった。しかし、現在の日本の考え方は、この両者の混合した形態といえる。依然として死刑は残存しているが、拷問は禁止され、更生の可能性に配慮しているからだ。

心神喪失と心神耗弱に対する考え方

心神喪失や心神耗弱による犯罪者に対して、刑法は「罰しない」または「刑を減軽する」と定めている。これは近代刑法の原則である「責任なければ刑罰なし」という理念に基づいており、人が自らの行為を制御できなかった場合には応報の意味を失う、という考え方である。もちろん、心神喪失であっても無罪放免というわけでなく、心神喪失者等医療観護法(2005年)に定められたような強制入院などの措置がある。なお、治療が終了したとみなされる期間は、同等の犯罪者の受刑者としての収容期間とは異なっている。

しかし、一般の生活者として社会の安心安全を考えるとき、この原則が果たして十分なのか、という疑問が残る。心神喪失だから無罪となり、あるいは心神耗弱だから刑が軽くなり、比較的短期間で社会に戻ってくるーそれを素直に受け止められる人はどれほどいるだろうか。被害者やその家族にとって、そして地域社会にとって、そこにあるのは「正義の回復」よりも「不安の持続」である。

筆者の考えは、応報主義でも純粋な功利主義でもなく、その両者のあいだにある。人が犯した行為の重さを無視することはできないし、同時に社会の安心を守ることも軽んじてはならない。だからこそ、心神喪失・心神耗弱による犯罪者に対しては、「罰」ではなく「隔離と治療」という形で一定期間、社会から距離を置かせることが必要だと思う。その期間は、完全責任能力を持つ者が同じ罪を犯した場合の量刑をおおよその目安とすればよいのではないか。もちろん「消費時間」だけが犯罪への対処の仕方ではないが、犯罪者を構成員の一人として受け入れる社会から見れば、それはある程度の納得性を持ったものといえるだろう。

ただし、それは報復ではなく、あくまで社会の安心のための時間的な猶予として位置づけたい。医療的支援やリハビリを受けながら、社会に再び参加できる準備を整える期間である。治療がうまくいったからといって即座に釈放するのではなく、罪の重さに見合う一定の時間を社会とのあいだに設けるーそれが社会全体の安心感を高めることにつながると考える。

もちろん、この考え方は「保安処分」の発想に近く、国家による恣意的な拘束へと傾く危険をはらんでいる。そこには「危険だから閉じ込めてしまう」という誘惑が潜んでいる。だからこそ、このような制度をもし設けるならば、期間の上限を明確に定め、第三者による厳格な審査や再評価を欠かしてはならない。隔離は無期限ではなく、罪の重さと社会の安心の両方を勘案した「一時的な安全弁」として限定的に用いるべきである。

筆者は、責任能力を欠いた人を罰するべきだと言いたいわけではない。むしろ、罰することよりも、社会が安心して共存できる状態をどうつくるかに関心がある。そのために必要なのは、処罰の強化ではなく、「治療」と「時間」をうまく組み合わせた制度設計である。

完全責任能力を持つ者には贖罪の時間を、心神喪失や心神耗弱の者には回復と再適応の時間を、という形で対応の仕方は違っても、その「時間のもつ重さ」は社会において等しく意味を持つのではないだろうか。

結局のところ、望ましいのは「安心して生きられる社会」ということである。そのためには、法と医療、応報と功利、人権と安全の間のバランスを考慮する必要があるだろう。

なお、本稿は法哲学的な論文ではなく、あくまでも法律に関するエッセイであるので、論理的な破綻が含まれている可能性があることを付記しておく。

追記

なお、全く何も知らずに原稿を書くというのもはばかられるので、今回は以下の書籍を参考にした。読者諸兄も参考にしていただきたい。もちろん全部を精読したわけではないが、筆者の問題意識に適合した説明をしている書籍が極めて少なかったことは残念に思う。文献のサーチ方法が悪かったのかもしれないが…。

中谷暘二 『精神障害者の責任能力 法と精神医学の対話』 金剛出版 (1993)

安田拓人 『刑事責任能力の本質とその判断』 弘文堂 (2006)

中谷暘二 『責任能力の現在-法と精神医学の交錯』 金剛出版 (2009)

林幸司 『事例から学ぶ 精神鑑定実践ガイド』 金剛出版 (2011)

袖長光知穂 『刑事精神鑑定入門 刑事精神鑑定に携わるひとのための副読本』 創造出版 (2022)