コミュニティの死:
メガコラボレーションよ、永遠に
ウェブをにぎわす流行語のうち、最も新しいもののひとつが「コミュニティ」だ。現実には、たいていのウェブサイトにはコミュニティのセンスが欠けている。ニューヨークの地下鉄以下だ。少なくとも、地下鉄ではみんなが同じ方向に向かっている。ウェブではユーザによってゴールはぜんぜん違うし、出所も全世界にまたがっている上、お互いの面識もない。
チャット vs. 会議室
インターネットのチャットルームは、コミュニティ欠如のまたとない実例だ。まじめな議論など何ひとつされたためしがない。チャットの唯一の使い道はお遊びだ。確かに、人間の欲求としては強いものがある(これがあるからAOLを延々と使い続ける人がいるのだ)。だが、デート斡旋サービスをやっているのでないかぎり、ウェブサイトからはチャットは排除するべきだ。
典型的なインターネットチャットは、だいたいこんな感じだ。「Macってすごい」 – 「いや、すごいのはBillさ」 – 「違うよ、Billは悪魔だ」 – 「何言ってる、うらやましいだけじゃないのか?」 – その他いろいろ。
チャットはその場限りのものであり、リアルタイムにスクロールしてしまう。まれに知的な内容が含まれていたにせよ、新たなユーザが加入する頃には、はるか以前に消え去っている。確かにチャットはアーカイブできるが、何千行もの無内容なおふざけを掻き分けていくのは、それをリアルタイムに体験するよりなお悪い。チャットはスシのようなもので、新しいうちが花ということだ。
会議室はチャットよりましだ。なぜなら、一貫性があり、ユーザに対して、投稿する前に内容を見直すように奨励していることが多いからだ。また、長い投稿になれば、その中にはいくつかの論点が含まれているのが普通であり、単に名前を呼び合うだけ、ということにはなりにくい。とは言いながら、ほとんどの投稿はおもしろみに欠ける。私の見た中で、うまく会議室を利用していたのはAnchorDeskである。第一に、すべての記事が会議室のタネになっているため、議論もメインのコンテンツに則したものになり、とりとめのない話題にまたがることがない。第二に、編集者が特に興味深い投稿を少しだけ選んで、記事の下から直接リンクを張っている。このため、最良の投稿がよく目立つようになり、読者も意味のある投稿だけに時間を集中できる。中傷合戦やつまらない議論の陳腐な繰り返しを避けることができるわけだ。
会議室のガイドラインとしては、以下のものが挙げられる。
- サイト内の主だったページからは、すべて関連の会議室に飛べるようにしておく。ユーザが何に興味を持つかは事前にはわからないし、サイトに対するコメントもいつ出てくるかわからないからだ
- 古い投稿を取り除く:関連のないものを削除するか、あるいは、最良のものを編集的に目立つようにしておく。
- サイトにチャットルームを設けたい欲望に駆られたときは、手始めに会議室から始めよう
チャットと会議室は、双方ともユーザ貢献型コンテンツの一形態である。このコンテンツが他のユーザに対してどれくらい価値があるか、という点から見た方が、コミュニティ形成という面から見るよりも分析はしやすい。確かに、ユーザ間に本物のコミュニティ感覚があるThe Wellのようなサービスも、数少ないながら存在する。だが、そのような例外的なケースからモデル形成はできない。平均的なサイトでは、ユーザ同士に面識はないのだ。
参加不平等
ユーザ貢献型のコンテンツから、本当のコミュニティが生まれることがめったにない最大の原因は、インターネット利用のあらゆる面に参加不平等(私がAT&T LaboratoriesのWill Hillから聞いた言葉)の傾向が著しいからだ。コンテンツの圧倒的大部分は一部のユーザの貢献になるものだ。一方、ほとんどのユーザはごくたまに投稿するくらいか、あるいはまったく投稿しない。残念ながら、1日中インターネットに投稿するくらいしかやることのない人間が、もっとも優れた洞察力ある人間ということはめったにない。言い換えると、インターネット本来の性質から、編集なしのユーザ貢献型コンテンツは、すべてつまらない記事で埋め尽くされるということになる。
一番の問題は、ユーザ貢献型コンテンツのほとんどが編集抜きという点にある。有益な投稿があっても、「ぼくもそう思う」的な、あるいは中傷合戦の大量の投稿の中にうずもれてしまう。明らかな解決法としては、編集、フィルタリング、その他何らかのやり方でユーザ貢献型コンテンツの順位付けを行うことだ。ひとつの案として、読者コメントの中でベストのものだけを数点選んで、これをメインページに直接掲載して目立つようにしておくことだ。一方、その他の読者コメントは副次的ページに格下げしておく。他の読者に「おもしろい」「つまらない」ボタンのいずれかをクリックさせ、この投票によって、もっとも興味ある投稿を決めることも可能だ。
メガコラボレーション
気の合うもの同士が共通の目標の元に集まった小さなグループ、という従来的な意味から言うと、ウェブはコラボレーション的な環境とはいえない。反対に、ウェブユーザのほとんどは一度も会ったことがないし、バックグラウンドも興味の対象もまったく異なっている。時には、お互いの目標が矛盾していることすらある。例えば、検索エンジンにヒットしやすいようにページ上に「エサ」を撒く作者がいるが、これも他のユーザにとってはウェブの有用性を減じるものにしかならない。
ウェブのモデルは、親切な友達同士のこぢんまりした村というわけにはいかない。巨大な異邦人の都市の方がよほどぴったりのモデルだ。よく計画された都市は確かにいい環境かもしれない。悪漢を捕まえる警官がいて、クルマの流れを指示する信号がある限りは。インターネットサービスを構築する上で都市のメタファーを採用するなら、必然的に、直接的コラボレーションよりもメガコラボレーションを主体にすることになる。
メガコラボレーションとは、何百万人もの集団的行動が建設的環境を形成するという考えである。個々の行動が、たとえ純粋にユーザ自身のことしか考えない行動であっても、それら行動の総和から価値あるものが生み出されるという考え方だ。例えば、大手ISPが一番アクセス数の多いページはどれかを測定して、ユーザがこれらのページへのリンクを含んだページを見ている間に、このデータをもとにして、前もって最新データを読み出しておく。もっといいのは、ISPが、あるページでもっともクリックされそうなリンクはどれかということに関して確率的なモデルを構築しておくことだ。こうすれば、より効率的にページの先読みができるだろう。このようなサービスがうまくいくことがわかれば、これをユーザインターフェイスに取り入れ、人気度にしたがってハイパーテキストリンクの色を変えておくこともできるだろう。将来的には、ISPは、会員群の行動傾向から得た知識を元にした付加価値サービスの良し悪しで競争するようになるだろう。
メガコラボレーションは単純な頻度測定から一歩進んだものにもできる。明示的な品質の表示を、将来のウェブユーザインターフェイスのキー要素にしなくてはいけない。数年先に予想される情報洪水をユーザが切り抜けるには、これが唯一の方法だからだ。品質については、人間の判断が唯一の尺度だ。よって、ISP、あるいは独立品質サービスは、サイトに対するユーザの反応を集めることで付加価値を生み出すことができるだろう。各ユーザに提示される品質評価は、そのユーザの合意を得た別のユーザから採取したものに限る。全ユーザの投票を平均したものではだめだ(さもないと、組織票を使う者が現われかねない)。
『Net.Gain』という本
出版社に希望したい。『Net Gain』の第2版では、編集者に原稿をチェックさせて「コミュニティ」という単語を全部削除していただきたい。ユーザ主導というこのメディアの性質を生かして、ウェブユーザに価値をもたらす必要があるという点を著者は力説している。ネットワーク経済での繁栄を望むなら、企業はビジネスのやり方をどれほど再考しなくてはならないかについても、この著者はよく理解している。この本の有益なメッセージの多くに間違ったラベルがついているのは、実に恥ずべきことだ。メッセージを単純にして本の販促を図りたいという気持ちは理解できる。「コミュニティ」という旗印を掲げていれば、マスコミにもたくさん取り上げてもらえるだろう。読者がたやすくだまされて、ユーザ主導型ウェブビジネスに関する戦略的メッセージを見逃さないように望みたい。流行語は忘れよう。顧客にとって有益な機能の構築を怠って、サイトの中心にチャットルームを据えたりすると、ビジネス的には大損になるだろう。
1997年8月15日