マイクロペイメントの論拠

最終的には、支払いをするものがその主導権を握る。現状では、物品販売を行っていないウェブサイトは、ほとんどが広告によってまかなわれている。よって、その主導権は広告主にあることになり、ユーザにとってはますます役に立たないものになっていくだろう。文字通りの軍拡競争がすでに始まっている。低下する一方のクリック率を挽回しようとして、広告はますますうるさくなり、何とかしてユーザの注意を引き付けようと躍起になっている。

広告をうるさくすると、究極的には自己破壊につながる。ポジティブなユーザ体験を提供しないサイトは、みんなが避けるようになるからだ。ウェブとはユーザ主導の現象であり、そこでは人は何らかの目的を持ってオンラインに赴いている。何かを買うのが目的、ということもきわめて多い。ゆえに、製品やサービスの販売およびサポートを行う商業サイトの未来は明るい。従来の製品はクレジットカードでも決済できる。だが、インターネットサービスは、一度に多額の課金を行うのではなく、少しずつ課金する必要がある。

従来型製品販売から資金を上げていないサイトは、そのほとんどが2年以内にマイクロペイメントに移行すると私は予想する。ユーザは進んでこれに応じるはずだ。例えば、その見返りに質の高いコンテンツと、邪魔な広告が少ない理想的なユーザ体験が得られるなら、ウェブページ1ページあたり1セントは支払うだろう。ページに対して支払ったユーザは、すなわちそのサイトの顧客になるわけだから、サイトのデザインも、広告主のニーズではなく、ユーザのニーズを満たすようなものになるだろう。

アナリストの中には、ユーザは、オンラインで「5セント、10セントと搾り取られる」ことを望んではいないと言うものもいる。事実、10セントなら問題かもしれない。しかし、5セントならそうは言えない。残念ながら、コンテンツに対して課金しているサイトの中には、1ページあたり1ドルもしくはそれ以上というレベルで課金しているところがある。こんな価格では当然おもしろくないし、付加価値が相当高いコンテンツでないと納得もできないだろう。しかも、買えばかなりの価値があると、前もって予想できなければならない。普通の記事(このコラムのような)では、それほど高くは取れない。

長距離通話料と電気代は、両方とも量り売りのサービスである。電話する時に身構える人は多い。少なくとも国際電話やその他の高額な通話の際はそうだろう。一方、電球の電力代をいちいち気にする人はごくわずかしかいない。たとえ、それで1時間あたり数セントの節約になるとしてもだ。電気代を気にして消灯するのは、ベッドに入る時くらいのものだ。この違いは、価格のレベルによる。

  • 1分につき1セント以下なら、みんな好きなだけ使う(電気)
  • 1分につき10セントになると、少し気にするようになる(長距離通話)
  • 1分につき40セントになると、かなり気にするようになる(国際通話)

ウェブでは、1ページあたり1セントくらいならユーザも気にしないはずだ。そのページが1セントの価値もないのなら、そもそもダウンロードするべきでない。この先、ウェブの重要性が増すにつれ、ほとんどの人が毎日100未満の有料ページにアクセスするようになるだろう(1998年6月時点で、ヘビーユーザは平均して1日46ページ閲覧している)。ほとんどのユーザは、ウェブコンテンツのサービス料金として毎月10~30ドルを支払うことになるだろう。

勤務時間中なら、ユーザの時間価値を計算するのは簡単だろう。さまざまな諸経費をその人の給与とほぼ同額と考えれば、年収3万5000ドルの人を雇うと、会社には1秒あたり1セントの経費がかかる計算になる。言い換えると、ウェブページにアクセスするたびに、ダウンロードが終わるのを座って待っているだけで、会社には10セントの経費がかかっているわけだ(ページデザインが10秒の応答時間制限に従っていると仮定しての話だが)。実際にページを読む時間をこれに加えると、従業員がウェブページにアクセスするたびに25セントから1ドルの経費がかかっていることになる(高給取りのスタッフならそれに比例して経費も増大する)。この文脈から言えば、それで確実にページの質が上がるのなら、コンテンツに1セント(あるいは数セント)支払うことなどなんでもない

典型的なバナー広告のダウンロードをだた待っているだけで、従業員時間にして3セントのコストとなる。これを広告なしのページの価値とすることもできるだろう。もちろん、ウェブアクセスのかなりの部分は仕事以外の時間に行われるわけで、その場合は時間の価値を見積もることは難しい。だが、自由時間の価値を勤務時間の1/3と仮定すれば、ひまつぶしに閲覧している人でも、広告をなくすためなら1セントは払うだろう。

購読料は足かせになる

ウェブ広告がビジネスモデルとして十分ではないこと認めた有名ウェブサイトの中には、1998年中に購読料の課金を開始すると発表したところもある。残念ながら、購読制はウェブではいいアイデアとはいえない。

購読料の主な問題は、選択肢がひとつしか提供されないことだ。何も払わない(よって何も得られない)か、多額の料金を支払う(よって何でも入手可能)か、ふたつにひとつ。この決断を迫られると、ほとんどのユーザが何も支払わない方を選択し、よそのサイトへ行ってしまう。多額の料金と登録時間に見合うほどそのサイトを利用するかどうかなんて、前もってわからないからだ。ウェブはつながりのない「文書-島」に分断され、ユーザは文書宇宙の全体を動き回れなくなってしまう。

マイクロペイメントはこの敷居を下げ、大決心しなくてもひとまずの利益を享受できるようになる。そうすれば、ユーザはもっとたくさんのページを見たり、もっとたくさん払ったりしようという気になるだろう。もちろん、サイトの常連ユーザに対するディスカウント制度はあっていい。こうすれば、結果的に講読プラン以上の金額を支払わなくてよくなる。同じユーザが同じページを繰り返し見る場合は、実質的に無料にしておくのもいい考えだ。こうすれば、違法コピーは減少するだろう。

物理的世界なら購読制は役に立った。講読申込みを決める前に、ニューススタンドでその出版物を1冊買ってくれば内容が確認できたからだ。また、印刷物の物理的配布には限界があった。このため、雑誌や新聞は、パッケージとして意味のあるユニットだった。10種類の雑誌、10種類の新聞から20の記事を集めて、毎日の読み物リストを作るとなると、かなりやっかいだ。ウェブなら、数多くの異なったサイトからベストのページだけを閲覧するということくらい、何の問題もなくできる。推薦や、検索エンジンの検索結果、相互参照といったものに従えばいいのだ。

購読制は、ウェブの基本原理、すなわち情報のリンクとユーザ主導のナビゲーションという原理に反するものだ。講読に課金するということは城壁を作るようなものであり、それはすなわち人々を中に入れないということである。作者が、背景情報として他のサイトにリンクしようと思った時、購読制のサイトを選ぶことは滅多にないだろう。ユーザの大部分は、リンクをたどれないことがわかるからである。同様に、検索エンジンも購読制のサイトを網羅しないはずだ。よって、そのようなサイトに興味に関連したページがあっても、ユーザがそれを知ることはないだろう。

たとえ作者や検索エンジンが購読制サイトにリンクしたとしても、ユーザがそこへ行くことはないはずだ。講読申込みのコストと、手続きにかかる時間を考えれば、たったひとつの欲しいページのためには引き合わないからだ。よって、ユーザがそのサイトに訪れることはない。また、ユーザに対してその価値を証明するチャンスさえ与えられないだろう。よって、彼、または彼女がロイヤルティの高い常連ビジターになることもない。

反対に、小額の課金ならリンクの障害にはならない。おそらく、信頼のある検索エンジンなら、小額課金サイトでも無料で探索できるようにする方法が生まれるだろう。どんなサイトも検索で見つけてもらいたいからだ。人間の作者も、課金ベースのページだからといってリンクを思いとどまったりはしないだろう。読者に数セント使わせる値打ちもないと思うようなページは、そもそも推薦すべきではない。

どんなページを推薦したらいいか決める際には、作者は価格のことももちろん考えるはずだ。安いサイトの方が有利だろう。だが、本当にすばらしいコンテンツなら、もっと課金することだってできるはずだ。サイト内の全ページを同じ値段にする必要はない。意見記事やニュース記事は、全製品カテゴリーに関する突っ込んだ評価記事より安くしておいてもいいだろう。

プリペイドリンクのための仕組みができる可能性もある。例えば、特に好意的な評価をしてくれた新聞サイトをユーザに紹介したいと考えた映画サイトがあるとしよう。この場合、特別な、デジタル署名付きのリンクを利用して、ユーザではなく、映画サイトに小額料金の課金を行うようにできる。よって、ユーザは気楽にリンクをたどって、好意的な評価記事を読んでくれるという寸法だ。

一般的に、一連のマイクロペイメント用ユーザインターフェイスを開発しておく必要があるだろう。ユーザが安価なリンクを経費をかけず、登録もなしにたどれるようにする一方で、知らない間に巨額の課金に見舞われるようなこともないようにしておくのだ。

1998年1月25日