「あそび」と「まとも」
CEATEC Japan 2002で、あるメーカから変わった情報機器が展示されたという。ボタンなどの操作部分が一切なく、機器を傾けたりすることで操作をするのだという。すぐに気になったのは、こうした新デザインに対してちゃんとユーザビリティ評価したのだろうか、ということだ。さらに気になったのは、そもそもどういう状況のどのようなユーザのために開発されたものなのだろうか、ということだ。
こうした情報機器やソフトウェアのデザインをしているデザイナーの皆さんに共通した傾向として、新規性を追求する姿勢がある。それはそれで構わない、という考え方もあるだろうが、そもそも何故新規性を追求しなければならないのだろうか。私自身、幾つかの展示会や発表会を見てまわって感じた印象としては、従来の機器やインタフェースに問題があり、それを解決するための提案というケースは比較的少ない。ともかく新規な提案を、という姿勢で作られたものが圧倒的に多い。新規であれば、目立つ。目立つから話題にのせてもらえる。結局それでお終いになってしまうのではないか。デザイナー諸氏は、こうした分野を情報デザインと呼んでいるようだ。しかし、これが本来あるべき情報デザインの姿なのだろうか、と常々思ってきた。
これは過去から現在に至るデザイン教育の中で、ユーザビリティという観点が欠落してきたことの結果といえよう。ユーザの利用状況を分析して、それにもとづいてデザインをし、それをユーザの観点から評価する、というプロセスの確立など、ほとんどのデザイン教育場面では教えられていない。もちろん個人的にはユーザの立場や状況を考えて、デザイン提案をしているデザイナもいる。自分なりの方法でユーザリサーチを行うデザイナもいる。しかし、特に多くの若いデザイナーは目先の新規性にとらわれてしまいがちのように思う。
こうした傾向はヒューマンインタフェースの分野でもこの10年ほど顕著である。何か新しい仕組みを提案すると、それが「本当に」使えるのかどうかは評価の対象にならず、その概念の新規性のみが評価されているような傾向がある。研究カテゴリーとしていえば、人工現実感や実世界指向、ウェアラブルといった分野にこうした傾向が強いように思える。グループウェアの研究でもそうしたものが多かった。こうした技術は一部実用化されているが、一見すると何らかの役にたちそうに思えるが、実は製品化されない、あるいは製品化されても売れない、ということが多いように思う。
企業戦略からすれば、こうした研究開発を進めたり、試作品を作るのは、見せ筋としての効果があることは確かだろう。しかし、そうした企業イメージ戦略が本当に成功しているのだろうか。私は、これはイメージをどのような方向に展開しようとするかによる、と考えている。
要するに、企業戦略として、「あそび」と「まとも」を峻別すべきなのだ。晴れと褻といってもいいだろう。人間はいつも仕事ばかりしているわけではない。時には遊びも必要である。お祭りごとも必要なのだ。その意味で、両方の方向について適切なデザインが提案されることは望ましいことだと思う。後者の「まとも」の分野についてはユーザビリティをきちんと考えた製品を考える必要があるが、前者の「あそび」の部分は、面白ければそれでいい。時には製品というより、アートとして世にだした方がいいものもあるだろう。その作品によって、人間の行為の意味を改めて問い直す、というものがあってもいいだろう。ともかく、そうしたあそび系とまとも系は区別すべきだと考えている。
この考え方からすると、研究開発管理のあり方として、どれをあそび研究開発とするのか、どれをまとも研究開発とするのかを明確に性格づけする必要があろう。研究者やデザイナーは自分の考えたものを認めてもらいたいから、いろいろな効用を主張するだろう。しかし、管理者はそれを識別する能力を持たねばならない。あそびは遊びとして、その方向で事業化すべきなのだ。もしその企業が遊びの製品展開を不得手とする「生真面目な」「固い」性格のものであれば、そこで遊び系の研究開発やデザインを進めるのは開発費の無駄遣いである。そうした遊び系によって、その生真面目文化や固い文化を内部変革していこうというのならそれもいい。しかし、重要なことは、あそび系のものをさもまとも系であるかのような顔をして出すようなことはすべきでない。
学会でもそうだ。あそび系の研究もいちおう「研究」ではあるだろうから、それなりに評価することもいいだろう。しかし、それがどのような方向であそびシステムの開発につながるのか、どのような点で面白さを感じさせられるのか、を意識した上で審査し採択すべきだろう。あそび系が目をひきつけるからといって、まとも系の研究の採択を圧迫するようなことがあってはならないと思う。