meaningfulnessとは何か
ユーザビリティを含む人間生活の目標概念の最上位として、以前私はmeaningfulness(日本語では生活の意義、生きる意味、有意義さとでも言えばいいのだろうか)という概念を位置づけた。ただし、その時点ではその概念について、下記のような体系を位置づけ、「人には、まず即自的存在として、自分の存在に対する認識、健康や財産、自分の能力や魅力に関する評価などの側面があり、対他的存在として対人的側面と対物的側面がある。対人的側面には愛情や友情、支配(被支配)、影響(被影響)などが、また対物的側面には自然物との関係と人工物との関係がある。」と書いておいたが、まだ漠然としたものだったので、少しその意味を考えてみることにした。
QOL(meaningfulness) ┣━━━即自的側面(1) ┃ ┗━━━個人的側面(11) ┗━━━対他的側面(2) ┣━━━対人的側面(21) ┗━━━対物的側面(22) ┣━━━自然物との関係(221) ┗━━━人工物との関係(222)
人は生活において何を求めるのだろうか。肯定的にいえば、精神的にも物質的にも豊かな生活、健康で明るい生活など、また否定的にいえば、何ものにも煩わされない生活、不愉快な経験をしない生活など。人間の欲求というのは、こうした肯定的な方向を、そしてまた否定的なものを無くす方向を目指すものである。それでは人間の欲求を満たすような生活、それが究極の意味ある生活の姿といえるのだろうか。
人間の欲求にもさまざまなものがある。そして人間は欲求を肥大させる傾向がある。だからすべての欲求が充足されるということは基本的にはありえないし、それを目指せば他人の不幸を招くことだってある。他人からお金をだまし取ってしまうのは、当人にとっては欲求の充足だが、とられた人にとっては不幸である。それでは良い欲求と悪い欲求というものがあるのだろうか。そうとも思えない。豊かになりたいという欲求だって、そのやり方次第では社会的に受容されるものにもなり、拒否されるものにもなる。その意味で、欲求とその充足ということは、状況によって良くなったり悪くなったりするものではないかと思われる。
それでは欲求の充足はその結果が社会的に受け入れられる方向であれば良いものかというと、そこも色々とありそうだ。仕事をバリバリとやって成果を沢山出す、いわゆるファーストライフというものは、社会的には肯定的に評価されるだろう。あいつは出来る奴だと認められることによって当人の自己評価もあがるだろう。しかしそれによって家庭生活が崩壊してしまったり、本人の健康が損なわれるようであったら、はたしてそれは望ましい結果といえるだろうか。意味ある生活といえるだろうか。当人が家庭生活なんてどうでもいいと思っていれば、それは当人にとっては意味ある生活かもしれないが、健康を害してしまっては長続きしないだろう。
そんなことを考えていると、どうも意味ある生活かどうかを判断するにはある種の規範が必要なように思える。倫理基準といってもいいだろう。あらためてその条件を考えてみると、やはり前提としては本人の欲求を満たす方向であるとは思えるので、
(1) その人の欲求を充足する方向に生活を動かしていくこと
といえるだろう。それは障害や病気に苦しんでいる人がその状態から抜け出そうとする場合には確実に適合しているといえるだろう。人工物がそれを支援するのであれば、その人工物は本当にusableであるといえる。しかし先の社会的基準を考慮するなら、
(2) その欲求の充足が他人に不利益や不快さをもたらさないこと
という付帯条件がつくだろう。
人間は社会的存在である以上、自分の欲求の充足だけを考えて行動するわけにはいかない。携帯電話を電車の中で使わないようにという社会規範はそうした考え方を外化したものである。さらに当人にとって本人が気が付いていない面でも当人にとっての不幸を招来しないものであることも必要であり、
(3) その欲求の充足が当人において何かを犠牲にしないこと
という条件をつける必要があるだろう。たとえば、新しい家を購入して本人や家族も嬉しくなったが、その返済のために必要以上の苦労をするようであれば、それは意味があったといえるのだろうか、ということだ。役に立ちそうだ、という見込みだけでモノを買ってしまう、そして買わせてしまうという動きは、その意味でmeaningfulnessに反しているように思う。
こうしたことを考えると、いわゆるスローライフが意味ある生活の目標と思えるような気もするが、必ずしもそうは言えないだろう。本人やその周囲がスローライフを心から望んでいるならまだしも、そのことでイライラする気持ちが生まれたりするようでは、その生活は本人にとって意味あるものとはいえない。したがって、これらの条件の前提となる基本的条件として、
(4) 本人の生き方に関する考え方が成熟していること
という成熟度の基準を設定する必要があるように思う。しかし、成熟とは何か、という問い。これは難しい。私がしばしば手本として参照するヨーロッパの生き方だって、すべてが望ましい訳ではない。ヨーロッパだって不幸はあるし犯罪もある。しかし、そのおおもとにある人間中心の考え方や(いい意味での)自己中心主義、これは自己完結主義といっていいような側面もあるのだが、そうした考え方に到達すること、というよりは、その考え方の実現を目指す過程、つまりプロセスが大切なのではないか、と思える。
こう考えてくると、宣伝に煽られていろいろなものを購入してしまうこと、欲しいと思ったら是が非でも手にいれようとすること、本当は無くても良かったものを買ってしまうこと、などはユーザビリティに関連したmeaningfulnessに照らすと、好ましいことではないと思われる。これは、とにかく消費者のニーズを喚起してモノを買わせようとするマーケティングの考え方とは正反対のものだ。ユーザビリティのデザインプロセスとして、利用状況(context of use)を考えようということが言われているが、真摯な立場に立てば、ユーザにとって必要のないもの、その生活を真に豊かにする可能性が低いものを見つけようとして、無理矢理にニーズの種を見つけようとするなら、それはmeaningfulnessという目標には反したユーザビリティ活動ということになるだろう。当たり前の生活を自然に過ごすことをサポートすること、こうした一見地味な方向がユーザビリティ活動として望まれるものである、というべきだろう。
これには当然反論があるだろう。そんなことをしていては企業活動は成立しなくなる。ひいては経済活動が弱体化し、国家基盤すらあやうくなる、と。私は経済学の専門家ではない。だから経済活動が弱体化してしまう、といわれると「そうなのかなあ」と考え込んでしまう。しかし、敢えてそれに反論するなら、今、企業は人々の生活にとって本当に必要なものをちゃんと提供しているのだろうか、と問い返したい。家庭訪問をしてフィールド調査などをしてみると、まだまだ本当に望ましいモノやシステムが提供されておらず、その代わりとして必ずしも必要でないものが提供されている。要するに方向を間違えた経済活動が行われているのではないのだろうか、と考える。もっと人々の生活にとって本当に必要なモノ、それが技術的に困難なものであっても、それを提供するようにがんばり、そして提供することができるようになるならば、必ずしも経済活動が減衰してしまうということにはならないのではないか、と考える。