文理融合と人工協調

特にインタフェース研究の世界では、文理融合アプローチという言い方がなされることが多い。面白いことに、そうした言い方をするのは基本的に「理」の側からであって、「文」の側から言われることはほとんどない。そのことは後で触れよう。

さて、そもそも「文理」とは何を指しているのか、そこが問題だ。このネーミングには引っかかるところがあるのだ。

まず「文」のこと。いわゆる文学部では、英文学や国文学のような文学系の領域があるが、文理融合でそうした領域の知見が必要とされることはほとんどないだろう。むしろ「文」とは言いつつも、行動科学とか社会科学といわれている領域のことを指しているのではないだろうか。

たとえば心理学の中では、認知心理学がインタフェース設計に有効な指針を出してくれることが良く知られている。そのほかにも、グループウェアやインターネットの研究では社会心理学との関係が重要になる。また計量心理学の生み出した因子分析の手法など、方法論的に応用場面で使われるものも多い。個人差が問題になる場合には人格心理学や発達心理学の知見も有用である。

心理学の他にも、技術の社会的影響などに関しては社会学が、製品のローカリゼーションについては文化人類学が援用されることが多い。

その意味では「文」と言われているものは、行動科学と社会科学のことだろうと思われる。

次に「理」の方だ。理学を英訳するとscienceであって、そうなると心理学も社会学も文化人類学も科学なので、そういう解釈ではまずい。一般には理学として、物理学や化学、生理学、数学などがイメージされるだろう。しかし物理学や化学の研究に、前述の「文」の知見が必要とされる場面はとても少ない。

その意味では、「理」というのは、むしろ技術(technology)や工学(engineering)というモノ作りに関係した領域のことと解釈すべきだろう。

そうなると、文理融合という表現は、正確には「人工融合」というべきだ、と考えられる。工学で何かを作ろうとする場合、それが人間に関係している場合には、人間に関係した科学的知見が求められる、ということだ。これでネーミングについては少しすっきりした。次は融合という表現だ。

融合はfusionとかamalgamationという英語に対応するが、協調的に溶け合うことを意味している。さて、溶け合うほど密接に「人」と「工」が協力しあえるのだろうか。溶けてしまえば「人」も「工」もなくなる。連携的なプロジェクトにおいては、そうした状態が理想と思われているのかもしれないが、本当にそうなのだろうか。また、それは可能なことなのだろうか。

僕にはそうは思えない。ダブルメジャーの経験を持つ人ならまだしも、自分のディシプリンをある分野で確立した人たちが、そんなに容易く異なるディシプリンを自家薬籠中のものにできるとは思えない。またプロジェクトメンバーには役割分担もある。役割を明確にしておくことは、他のディシプリンに対して批判的になれることをも意味している。協調的な姿勢のなかにおける批判は大切なことだと思う。その意味で融合という用語にも引っかかるところがある。むしろ協調というべきではないか。

そんなわけで出来上がったのが「人工協調」という表現だ。んー、いまひとつだとは思うし、文理融合という表現の野心的なニュアンスが消えてしまっている。しかし、実態を的確に表現しているとは思う。

さて、次に大切なのはその内容だ。文理融合を謳ったプロジェクトの成果報告書を読むと、たしかに人間科学系の研究者と工学系の研究者が参加しているが、どうもばらばらに活動をして、それぞれの報告をバインドしたものが、その報告書となっていることが多い。これはどうしたことか。

いささか短絡的に言えば、人間科学系の研究者と工学系の研究者が共に参加して何かを作ろうというのが、そもそも無理なことが多いのではないか。それぞれの研究にはそれぞれのタイムスケールがある。それを考慮してプロジェクトの進捗プランを構成してあれば良いが、そうでなければどちらかに無理が生じる。

何とか可能と思われるプランを立ててみると、まずプロジェクトの目標としている開発に関連した知見を、人間科学系の研究者が既存の知識のなかから持ち出してきて、それを解説する。ああ、人間はそういうことがあるのか、それならばこういう風に作らなければならないだろう。工学系の研究者はそう考えて、アイデアをひねる。プロジェクト立ち上げの時期にこういう組み合わせをするなら現実的にはタイムシフトが発生せず、うまく立ち上げることができるだろう。しかし、人間科学の研究者を単なる家庭教師のように使うのでは、協調的な研究開発といえるだろうか。また、そのような形で人間科学の既存の知識を利用するなら、工学系の研究者が、人間科学の書籍や資料を自分で調べればいいことだ。

また、もうひとつ、ある程度試作品ができた時に、それが人間にとって使いうるものかどうかを評価して確認するという仕事を人間科学の研究者に求めることが考えられる。しかしそれも問題だ。人間科学の研究者にとって、それは研究ではなく作業でしかない。

つまり、協調的なプロジェクト運用を図ろうとしても、結局のところイニシアチブをとるのは工学系の研究者であり、人間科学系の研究者は使用人でしかない。

この反対に、人間科学系の研究者が研究をして、その成果を工学系の研究者に渡そうとすると、プロジェクトの進捗プランでは、当初、1-2年は人間科学系の研究者が研究を行い、その成果をもって工学系の研究者と議論をすることになる。その後は主に工学系の研究者が仕事を進め、最後の評価確認の段階で人間科学系の研究者に「協力」を求めることになる。こんな形のプロジェクトなら人工協調といえるだろうが、現在の助成金システムでこうした形を許容するものは無い。

ようするに文理融合にしても、人工協調にしても、それは結局のところ工学系の研究者が必要に応じて人間科学系の知見からの支援を求める、という図式でしかないのだろう。その意味で、文理融合という言葉を使いたがるのが、工学系の研究者である、という事実も納得できる。

もちろん、ごくたまには本当の意味での融合的研究が可能になることもあるだろう。しかしそれはセレンディビティのような話で、いつでも、というわけではない。こうした融合的プロジェクトのあり方について、反省をこめて、回顧的研究をする必要があるように思う。

公開: 2009年3月5日
著者: 黒須教授

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