ワークショップの意義と進め方
ワークショップには、具体的な課題が無く、成果として何を作るかという共同意志が明確でないケースが多いことについての批判もある。安直なものにしないためには、適切なコンテクストの構築が必要だろう。
ワークショップが流行するようになって久しい。HCDの分野で行われているワークショップは、数人が一つのグループになって、与えられたテーマで議論を行ったり、その結果を模造紙にまとめたりするもので、その基本的な効果は、他人との共同作業によって自分とは異なる視点や考え方を知ることが出来、さらに一つの目標に向かって全員が力を合わせることにより達成感が得られることが出来る点だろう。消極的な意味合いでいえば、傍観者であることが許されず、何らかの形で社会的な参与をすることになり、それが結果としての複数視点の理解や達成感の享受につながってゆく。モデレータなり教師側からすると、参加者には実践的に理解を深めてもらうことができ、更に複数の視点から合意された結果が得られるため、結果の信頼性が高まるというメリットがある。さらに、これまた消極的な意味合いであるが、自分だけが話を続けてゆく必要がないので楽であるというメリットもある。
このワークショップという概念には幾つかの考え方があるが、認知科学的な観点から教育実践のあり方を考える人たちも、ワークショップという概念を好む傾向がある。この分野では、バウンダリークロッシング(越境)とか、ノットワーキングという共同作業特有の効果を重視し、学びのための共同の場について考えることが多い。さらにZPD(発達の最近接領域)とか、LPP(正統的周辺参加)といった概念も入り交じってきて、何かとても高尚な議論をしているようにも見えるのだが、敢えて安易な要約を試みれば、人々が集まって「なにか」をしている場における心理的な相互作用について再考してみよう、と考えているように思える。
ただ、その議論は、しばしば抽象的になってしまい、抽象的な場としてのワークショップが構成され、そこに何らかの意義を見つけようと試みることにもなってしまう。これに対しては、認知科学会のワークショップ「ワークショップにおける学習」において、横浜国立大の有元典文氏のコメント「ワークショップの参加者が『学習した、学習した』ってもし言うとしたら、それは何か勘違いをしてるんじゃないのか。学習っていうのは未来の自分になることでしょ。自分ができない未来の自分になって過去の自分を忘れることでしょう。それが『何か今、わかったような気がする』っていうその気持ちにね、押しつぶされて、なんだか楽しい気持ちになっちゃってるとしたら、それは未来の自分にはなってないと思います。それは学習って言わずに、エンターテイメントって言った方がいいと思います。」が適切な批判になっているように思う。要するに具体的な課題が無く、その場の成果として何を作り上げようかという共同意志が明確になっていないケースが多いことについての批判である。
たしかにワークショップには楽しさがある。共同作業というもの自体の持っている特性といっていいだろう。ただ、根源的には、その楽しさは友達と砂場で山や谷を作ったりする楽しさに近いモノであり、そこに埋没してしまってはワークショップ本来の狙いが活きてこない。
いいかえれば、ワークショップの参加者に対して、これから実施する作業、ないしこれまでにやってきた作業が、どのような目的に対して行われているのかという自覚を促す操作が必須だ、ということでもある。HCD関連のワークショップには本来そうした目標はあるはずなので、あとは参加メンバーに対して、そうした理解と自覚を促すことが必要になる。
局所的な目標は比較的理解されやすく、「これとこれの関係においては、こういうことが考えられるんじゃないか」といった発言をすることも容易である。しかし、そうした作業を一連のものとして実施した後で、何が得られるのか、そして、そうやって得られたものが、自分たちの目標であるHCD的な「なにか」を構築するために、どのような位置づけになるのか、さらには、そのような「なにか」を構築するための手法として、現在やっているワークショップの作業がどのような意味を持つのか、その有効さや効率はどうなのか、といった反省まで含めて、参加した全員が理解できるようにしなければ、本来のワークショップとしての意味はないだろう。
このように考えると、安直なワークショップにしないためには、そのための適切なコンテクストの構築が必要であり、特に事前準備の徹底と、事後の集約作業の慎重さが求められる、といえるだろう。
編集者注
上記の「横浜国立大の有元典文氏のコメント」は、『日本認知科学会 教育環境のデザイン分科会 活動記録 No.1』の46ページにあるものと同じと思われます。