ペルソナ再考
ペルソナは「デザインの成功」につながる手法だということは確かである。ただし、それは妥当性のあるデザインを行うことができるか、適切なデザインを行うことができるか、ということとは別である。
ペルソナ手法への素朴な疑問
アラン・クーパーによって提唱されたペルソナ(アラン・クーパー『コンピュータは、むずかしすぎて使えない』 (2000) 翔永社、原著1998[i])は、今では欠かせないデザインツールとして頻繁に、また日常的に利用されている。僕は昔、そのことを最初に又聞きしたときから「たった一人のペルソナを想定してデザインする」という言い方に引っかかっていた。
ただし、クーパーは後年、
ペルソナは特定の個人として描かれているが、アーキタイプ(原型)として機能するものなので、実際には特定のインタラクティブ製品のユーザータイプ、ユーザーグループを表現する。
(アラン・クーパー『About Face 3 インタラクションデザインの極意』 (2008) アスキーメディアワークス、原著 2007)
と書いていて、同時に後述のキャストに相当するペルソナセットというものを用意するとも書いている。その意味では、「たった一人」というのは、デザインをするときに想定するユーザは、それに代表される特性の集合体である、ということで「お一人様」だけを考えたデザインとはいささか異なる、つまり又聞きしたときに僕の抱いた印象は杞憂であった、といえるだろう。ただ、この点は誤解を招きやすく、「たった一人」を想定するだけで良いんだ、という誤解は今でも潜在しているのではないかと思う。
現在、デザインの現場で作成されているペルソナが実際にどのようなものか、ちゃんと調査をしたわけではないので詳しくは分からないが、以前、C大学のA氏が「企業の実態を調べてみたら、ペルソナを一つしか作っていないケースが大半だった」というような話をしておられたが、それはそれで驚愕すべき話であった。オリジナル提唱者の考え方を無視したようなやり方がまかり通っているとすれば、それはやはり問題だし、ペルソナを使いました、と言うことすらおこがましいだろう。
ちなみに、ISO 13407:1999やISO 9241-210:2010における人間中心設計の考え方では「目標ユーザ(targeted user)」という言い方がされている。ここで単語がuserでありusersと複数形になっていないが、これは集合的な意味でのユーザのことである。したがって、ISOの考え方はクーパーのいうアーキタイプと近いものかもしれないが、ISOではそこまでの詳細については触れていない。
いわんや可能な限り多様なユーザのことを考えようとするユニバーサルデザインやアクセシビリティの立場からしたら、とんでもない発想だということになりかねない。ちなみに、ユニバーサルデザインについては、ペルソナアプローチとの比較の文脈において棚橋が、
ユニバーサルデザインが同じ製品を誰もが使えるように一般化を目指したデザインであるのに対し、ユーザビリティは逆に「特定の…」という専門性を目指します。ペルソナ/シナリオ法がユーザビリティ品質基準の向上に貢献するのはこの点においてです。(一部改変)
(棚橋弘季 『ペルソナ作って、それからどうするの?』 (2008) ソフトバンククリエイティブ)
というような形で批判を行っている。ただし、ここで棚橋はユニバーサルデザインを共用品のアプローチと同一視してしまっているように思われる。つまり、一つのデザインで可能な限り多くのユーザが利用できるものを目指しているという解釈である。
ユニバーサルデザインは、特定の範囲に限定せず可能なかぎり多様なユーザによる利用を目指しているものであり、少なくとも表面的にはペルソナアプローチとは反対の極にある。ただ、ユニバーサルデザインにおいても、実際にデザインを行う際には、ユーザを特定している。ユーザを想定せずにデザインを行うことはできないからだ。要は、単なるユーザビリティデザイン―そこにはペルソナの利用を含んでいるのだが―と、ユニバーサルデザインの違いは、ユーザを特定するかしないかということではなく、特定するユーザの範囲を「可能な限り幅広くとらえようとする」か否か、ということになるだろう。
僕が当初抱いていた疑問はユーザの多様性に関係したものだ。キャストや複数のペルソナを想定するとしても、ユーザの多様性を十分に考慮せずに、どうしていいデザインができるのか、ということだ。ユーザに関する妥当性が低いのではないか、ということが気になっていたのだ。
しかし、クーパーは『コンピュータは…』の特に第九章で次のように書いている。
幅広いユーザ層を満足させる製品をつくろうとしたら、理屈からいえば、機能をなるべく多くして、最大の人間に対応できるようにするべきだということになる。この理屈はまちがっている。たった一人のためにデザインしたほうが、ずっと成功するのだ。
これはショッキングな言い方だが、クーパーは些か奇をてらった言い方をするところがある。この部分を丁寧に言うなら、「デザインを行うときには、その都度、特定のユーザのためにデザインした方が、ずっとうまくいくのだ」と言い換えるべきだったろう。後述するように、キャストや複数ペルソナを用意しておいて、取っ替え引っ替え主要ペルソナを設定するやり方は、その都度、対象となる主要ペルソナに対してデザインするということになるわけだ。
しかしながら、われわれは、これがデザインの成功について語られた言葉であり、デザインの正当性や妥当性について語ったものではないことに注意しなければならない。この点については、本稿の後半で触れることにする。
適切なペルソナとは
クーパーは、
ペルソナ定義を厳密にするという観点からは、平均というのは除外する必要がある。「平均的なユーザ」は決して平均なんかではない。
とも書いている。彼は逆説的な物言いが好きな人のようで、これもまたその一つなのだが、デモグラフィックな属性に関して考えていた場合、そもそもユーザに関する平均というものが存在しないのはたしかである。年齢や身長、体重のように数値的な属性もあるが、性別や職業、居住地域のように非数値的な属性については、そもそも平均を出すことはできない。彼が平均という言葉で語りたかったことを代表値と置き換えれば、最頻値などを取ることによって代表的ユーザの像を作り出すことはできる。しかし、複数の属性に関してそのようにして集めた代表値を組み合わせたものがユーザ像といえるかというと、そうではないだろう。これがクーパーの言いたかったことだ。
実際、そんな人物はほとんど存在しないだろうし、平均的でありながら却って非現実的に受け止められてしまう可能性もある。しかも、それはユーザの多様性を集約しすぎてしまっている。その意味で、インタビュー調査などにもとづいたリアルな人物像をユーザ像として考慮することには一理がある。
人間の特性は多様であり、またその置かれている状況も多様である。そうした特性と状況の組み合わせは膨大なものになり、そのすべてを網羅してユーザのことを考えるのが不可能なことはいうまでもない。従って、ある種のサンプリングが必要になる。特性や状況が構成する多次元的な空間の中から幾つかのサンプルを取り出して、それをユーザに関する多次元空間における代表とするという考え方は、まあ現実的に受容せざるを得ないだろう。
そのサンプルの取り出しについて、ペルソナが登場する前はユーザプロファイリング(user profiling)という手法が使われてきた。これはユーザの属性や特性に関する情報をアンケートや行動履歴から集め、それを分類し、幾つかの類型としてまとめる手法で、そこから得られるユーザのプロファイルは統計的ないし集合的な性格を持ったものといえる。これに対してペルソナは特定の個人に焦点をあてるやり方で、したがって具体的であり、ユーザの行動を理解するのも容易である。プルーイットも、
ユーザ・プロファイリングがグループとしての傾向を調べるのに対して、ペルソナはある1人の仮想的なユーザに焦点を置いて、そのユーザが持つであろう個人的な目標を描き出す点が特徴である。
(ジョン S. プルーイット『ペルソナ戦略―マーケティング、製品開発、デザインを顧客志向にする』 (2007) ダイヤモンド社)
と述べている。
サンプリングを行った結果に相当するのがキャスト(cast)である。これはペルソナ手法のなかで、母集団全体を代表すると考えられる一群のユーザ像(ペルソナ)である。なおクーパーの『コンピュータは…』は一般書の位置づけのようで、きちんとした概念定義が書かれていないので、ここでの一群のユーザ像という表現は想像したものである。
キャストの作り方にはいろいろあるが、水本、有吉、山崎 (2011) “製品開発におけるペルソナ手法の導入と活用”のように、柱となる属性を決め、その要素をベースにその他の属性の要素を組み合わせていくことで絞り込む
のは適切なやり方かと思われる。ただ、ここで「その他の属性」として何を考慮するかが重要であり、開発目標とする機器やシステム、サービスとの関連度に関する判断の適否が成果を左右するといえるだろう。考えられる限りの属性をすべて投入して考えることは物理的に不可能であるからだ。
クーパーも、前掲書で取り上げた飛行機内のメディア端末のデザインに関して、キャストとして
- クレヴィス・マクラウド(65才)エコノミークラス
- マリー・デュボワ(31才)ビジネスクラス
- チャック・バーガーマイスター(54才)ファーストクラス
- イーサン・スコット(9才)エコノミークラス
を設定し、それぞれの顔写真とプロフィル記述を載せたあと、
われわれのインターフェイスは、チャックもイーサンも、マリーもクレヴィスも満足させなくてはならないし、そのだれも怒らせてはいけない。でもだからといって、四人とも最高に満足させる必要があるわけではない。…結局、共通分母はクレヴィスになった。
として、クレヴィスを主要ペルソナとして設定している。したがって、デザイン作業はクレヴィスを念頭において実施されることになった。
クーパーは次のように書いている。
チャック、マリー、イーサンに特化した解決法は、クレヴィスには絶対に受け入れられない。でも頑固な老ラッダイトたるクレヴィスの喜ぶインターフェイスは、チャックにもイーサンにもマリーにも完全に問題ないはずだ。かれらの特殊なニーズにインターフェイスのどこかで対応していればいい。
クーパーにおける主要ペルソナとキャストの関係は、このようなものだったのだ。クーパーは続けて、
デザインプロジェクト全体を通じて、クレヴィスがわれわれの礎石になった。かれの姿がわれわれの戦いの基準となった。クレヴィスを満足させたら、どんな航空機乗客も満足するのがわかっていた。かれこそがわれわれの主要ペルソナであり、システムはかれのために、そしてかれだけのためにデザインされた。
と書いている。
なお、ペルソナを作成する数について、プルーイットは、
適当なのは、3~5体だろう。とはいえ、実際に作成すべきペルソナ数は、数体のペルソナをプロダクト・チームとのコミュニケーションに利用していくうちにわかってくる。必要なペルソナの数は、製品プロジェクトのゴールやデータの内容によって異なる。
と書いている。さらに、どのペルソナが主となり、どのペルソナが副となるべきか、ということも書いているので、基本的にはクーパーのキャストとプルーイットの数体のペルソナという考え方との間に相違はない。ただ、
クーパーは『3つ以上のインタフェースを持ち、3体以上の主要ペルソナを作成しなければならないようでは、製品の適用範囲が広すぎる』と説いている。
(プルーイット前掲書p.96)
しかしこれはちょっと違うんじゃないか? あるいは適用範囲の広い製品やシステムやサービスにはペルソナ法を使うな、ということなんだろうか、そんな疑問がわいてきた。僕は、主要ペルソナは製品やシステムやサービスの種類によって前後するものの、必要なら何体でも作るべきではないか、とも思っている。本稿の最後に述べるように、ユニバーサルデザインの場合、あるいは特に公共的な機器、システム、サービスの場合にはそれは重要なポイントだと考えている。
ペルソナの評判
“ペルソナ”でGoogle検索をすると、なんと4080万件がヒットする。ただしゲームの項目も混じっているため、“マーケティング”とのandをとると、それでも179万件がヒットする。そういう時代になったのだなあ、と思わせられる。その幾つかを見てペルソナの特徴やメリットを探してみると、たとえば次のようなものが見つかった。
- 担当者間で、共通した人物像を形成することができる
- ユーザ視点の精度を高めることができる
- 時間、コストの削減ができる
「ペルソナ」によってターゲット層を表現することは、商品のターゲット像を関係者全員で明確なイメージを共有し、商品開発や販売方法の方向性にブレが生じないように統一するというメリットがあります。
ペルソナ【Persona】とは – ferret
2割の典型的なユーザ像を浮き彫りにすることで、8割のニーズをカバーすることができるという「パレートの法則」を利用し、個人の詳細なニーズを掴むことで、マジョリティのニーズを掴むことを目指す手法とも言えます。
- 一人の顧客像に対するデータを徹底的に分析することで、ユーザの実態に対する理解が深められる
- 「思い込み」や「関係者間の意識のズレ」を防ぎ、精度の高いユーザ視点を持つことができる
- 担当分野の異なる関係者間でも、同じ顧客像を常に意識することが容易となるため、議論の質が高められる
- 価値観の多様化とニーズの細分化が進む中、ユーザの本音を理解し、コミュニケーションを深めていくために効果的である
といった具合で、開発関係者のイメージ統一に役立ち、的確なユーザ像を捉えることで良いデザインが行えるようになる、といった論調である。関係者のイメージが統一できるというメリットについてクーパーは、
ステークホルダ一、プログラマ、他のデザイナとのコミュニケーション。ペルソナは、デザイン上の判断について議論するときの共通言語を提供する。また、プロセスのあらゆる場面でデザインがユーザ本位のものからそれるのを防ぐ。
と書いている。この点は、マーケティングやデザイン関係者に話を聞くと、まず最初に返ってくる回答である。こうした意味では、まさにクーパーが言ったようにペルソナは「デザインの成功」を目指した手法ということになる。
成功するデザインか、妥当で適正なデザインか
「たった一人のためのデザイン」という言い方はそれを耳にしたときはショッキングに響いたものの、デザインに対して一人の主要ペルソナを念頭に作業を行うことは、担当者の認知的負担を考えるとそれなりの妥当性があるように思われる。我々の認知システムには様々な限界があり、それを超えると過負荷となって適切な情報処理を行えなくなる。その意味で一人のペルソナに集中してデザイン作業を進めるのは適切といえるだろう。
さらに、UIの設計をどのようにするかについて、例えば二人の主要ペルソナを同時に想定した場合、彼らの間で相矛盾した要求があった場合、設計は困難に直面することになる。こうしたことから、まず一人のペルソナに集中するというクーパーのペルソナ法にはそれなりの利点があるといえる。
一人のペルソナを使ってデザイン作業をすることがやりやすいことは確かだといえるし、多くの人々が指摘するように、関係者の間でイメージが統一されることにもデザイン的な成功につながるポイントだといえる。つまり、ペルソナは「デザインの成功」につながる手法だということは確かである。ただし、…ここが重要なポイントなのだが、それは妥当性のあるデザインを行うことができるか、適切なデザインを行うことができるか、ということとは別である。
もちろん少なくとも主要ペルソナについてはそれなりに適切なUIがデザインされるだろうから、そのペルソナに対応するユーザについては妥当性のあるデザインになるだろうと考えられる。そのことをもって、関係者が「デザインが成功した」と感じることも想像できる。
でも、他の人達についてはどうだろう。主要ペルソナに関するデザインの成功をもって、デザインはこれで良い、という考え方は、必要条件をそこそこ満たしているかもしれないが、十分条件を満たしてはいないだろう。いや、それでもいいじゃない、そこそこの範囲のユーザについてそれなりに成功するデザインができるなら、と言われるのであれば、ここで話はお仕舞いである。
だが、ユニバーサルデザインにも片足を突っ込んでいる僕としては、それ以上のことを言いたい。あるいは、もっと大きな成功を収めるためには、そこで満足していていいはずがない、とも言いたい。
ポイントはキャストの設定の仕方やその範囲にあると思う。ただし、キャストとしてリストアップされた人達の特性や状況が、想定されたユーザの全体像を適切にサンプリングしたものであることが前提にはなる。棚橋の指摘のように、ペルソナの考え方とユニバーサルデザインの考え方は相性が悪いというのは、前者を集約的、後者を拡散的だと捉えることによって生じるのだろう。
しかし、(工程や在庫管理などの点で許容できる範囲内で)より多くの多様な人々に使ってもらうことができれば、それはさらに大きな成功につながるのではないか。僕の理解するところでは、ユーザビリティデザインは一般的な範囲で対象とするユーザを想定し、ユニバーサルデザインやアクセシビリティは可能な限り広い範囲で対象とするユーザを想定するという違いはあるものの、ユーザを想定してデザインを行う点は同じはずである。後者が前者で十分にカバーされない障害者や高齢者に注力しようとした結果、ユニバーサルデザインやアクセシビリティアプローチは障害者や高齢者を対象としたデザインだという誤解を招くような事態に至っていることは指摘しておくべきだろう。
なお、当然のことだが、主要ペルソナについて検討している時期には他のキャストのことは考えないほうがいいだろう。その理由は既に述べたようにデザイナの認知的負荷の問題と発生しうる要求事項の矛盾とである。主要ペルソナに関する検討が終わったら、次に残りのキャストから次の主要ペルソナを引き出して検討を再開する。そのようにして、用意したキャスト全員を次々に交代させて主要ペルソナとしてデザイン作業を行うのである。このあたりについてはクーパーの考え方と相違があるかもしれない。
最後に指摘しておきたいのは、自治体のウェブサイトやATMのUIデザインなど公共性の高いものについては、徹底してキャストの想定を行うべきだということである。公共場面においては、それこそユニバーサルデザインが指摘するように、ほんとうに多様なユーザが機器やシステムやサービスにアクセスしてくる。自治体行政などについては、使いやすいことはユーザである生活者の権利でもある。そして、それにきちんと対応することは自治体側の義務である。基本的には一人も漏らさず、というスタンスが必要になる。このような場合、可能な限りのキャストを設定してデザインを行い、リリース後はユーザからのフィードバックを得て逐次改善を行ってゆく姿勢が必要である。
もしかすると公共的な機器やシステム、サービスの設計においては、安易なペルソナ適用は避けたほうがいいかもしれない。しかし、ペルソナのもつ「デザインの成功」という利点を捨て去る必要はないだろう。大変なことは確かだが、多くのキャストを用意して取り組むのが理想的な姿だと思う。この点においては、僕の考え方はクーパーと異なっている。
なお、本稿の作成にあたり、このコラム担当のイードのMさんから、いろいろと情報や助言をいただいたことを感謝します。
[i] なお、それ以前にAbout Face: The Essentials of User Interface Design (1995) IDG Booksが書かれているが、本文検索をしてもpersonaという言葉はでてこなかったので、1998年の本が、書籍としてはpersonaという言葉の初出と言っていいだろう