ユーザ補助のためのインターネットアーキテクチャ

インターネットのイデオロギーは、20年前の仮説に基づいている。エリート校のコンピュータ学部の教授や大学院生、それにBell研究所スタイルの調査機関といった限られたユーザしかいなかったころの話だ。これらの仮説が、何百万行ものコードや、数え切れないプロトコルの中に埋め込まれている。

  • データは常に重要だ
  • ビットは移動しなければならない。だがすべてのビットは生まれながらに平等だ。
  • 人間はビットを消費するために存在する
  • 複数のコンピュータが存在することを明示すべきだ
  • 誰もがみんな正直で、信頼でき、等しく重要である

今や、インターネットの基礎を変革する必要がある。もっと人間のニーズや、大勢のユーザに合ったものにしなくてはならない。ほとんどの研究予算は、従来のイデオロギーの枠内、すなわちデータ転送に太い帯域を利用できる環境のために消費されてしまう。高解像度ビデオを使って遠隔地の患者を診察する医者、というような利用シナリオを想定しがちだ。

インターネットのイデオロギーを、もっと便利で人間中心のものにしていくには、いくつかのステップを踏まなければならない。

  • 評判管理者(reputation manager)がいれば、ユーザがいいものと悪いものを見分ける役に立つだろう。
  • マイクロペイメント(小額課金)があれば、インターネット利用の経済モデルが明確になり、価値を転送するための新たなプロトコルを生み出す原動力になるだろう。例えば、大きな帯域幅を必要とするビデオストリームをダウンロードしようというユーザには、テキストだけのページを閲覧するユーザよりも高額な課金をするのが理にかなっている。
  • セキュリティと暗号化を普及させるべきだ。プレインテキストの情報をインターネットに流すべきではない。同様にデジタル署名なしのメッセージも流すべきでない。あいにく、現在のアプローチ、例えばPGPのようなやり方は、平均的ユーザにとってユーザビリティが低すぎる。セキュリティは確保されてあたり前であるべきだし、例外ではなくデフォルトで処理されるべきものだ。
  • 濫用者や悪用者がいることを前提にしよう。正直なユーザが彼らから受ける被害を最小限に抑えることだ。評判管理者がいれば、悪用者やいさかいを減らすことができる。セキュリティ処置をとれば、濫用の可能性を減らせる。だが、あらゆるウェブサービスは、デザインとアーキテクチャに弾力性を持たせておくべきだ。

Eメール: 生産性の天罰

Eメールに圧倒されていないだろうか。受け取るメールの量が多すぎて、うんざりしていないだろうか。

かなりの確信を持ってこう言えるのは、誰もがみんな、圧倒的な量のEメールに見舞われているからだ。Eメールユーザを調査すると、注目すべき結果が得られる。皆が口を揃えてこんなことを言うのだ。「毎日X通ものメッセージが来ますよ。これがストレスの元で、処理するのもかなり遅れています」Xに入る数字が10であろうと100であろうと、イライラの程度には変わりない。受け取るEメールが何通であろうと、それは量が多すぎ、ストレスの元になっていて、処理は後手に回っているはずだ。

私の見るところ、一定量のメールをさばくためには行動を変えねばならないのだが、これにいつも時間がかかるのが原因ではないかと思う。メールの総量が増えるにしたがって、その処理はどんどん事務的になる。1日に受け取るメッセージが2、3通のうちは、それらを個人的なやり取りと考えて、注意深く考えた上で、美辞麗句をもって返信を書き上げることができる。1日50通を超えると、「了解。そうして下さい」式の返信をするようになり、100通を超えると、ほとんどのメールには返事も出さなくなる(読みもせずに捨てられるメッセージも多い。この点からみても、よいタイトルをつける必要がある)。

あらゆるユーザがEメールに圧倒されている。Eメールを処理するために使われる時間コストは、全世界で年間約2000億ドルにもなる。

にも関わらず、Eメールシステムの基本的な哲学は「メールは通すべし」なのだ。昔からのスローガンそっくりだ。「雨も、雪も、みぞれも、夜の暗闇もなんのその、配達人は受け持ち区域を迅速に巡回します」

いっぱいになってしまわないようにユーザのメールボックスを保護するほうが、もっとましな哲学と言えるだろう。現在のシステムでは、あなたのEメールアドレスを知った人間は、誰でも、わずかながらあなたの会社のお金を無駄にできるのだ。長期的にみれば、スパムをなくす唯一の方法は、メッセージの送信料を発信者から徴収することだ。この中には、受取人の時間コストも含まれる。

配布先リストにメッセージを送信する際には、ユーザに対して「このメッセージを8537人に送信しようとしています。続行しますか?」といったようなダイアログボックスを提示すべきだ。「送信者に返信」ボタンと間違って「全員に返信」ボタンを押して、不要なEメールを送ってしまう人を、この簡単な質問ひとつでかなり減らすことができるだろう。

また、Eメールでは、背後で動作しているサーバの構造を、ユーザは意識せざるを得ない。アドレスがuser@machine.domainといった形態になっているからだ。Eメールソフトの中には、「便利な」ソフトにしようとして、コンピュータ中心的なアドレス方式のかわりに、人間の氏名を使えるようにしてあるものもある。だが、結果的にはユーザビリティ上の問題を引き起こすことが多い。Microsoft Outlookで、特定の会社に所属している人全員のEメールアドレスを探してみなさい。ドメインネームが隠されているから、これはたやすい仕事ではない。Eメールメッセージをもっと豊かなオブジェクトにして、送信者の所属企業といったフィールドも含めるようにしたほうが、よりよいソリューションになるだろう。基本的なプロトコルを、このように人間的な側面から補強しようという動きは非常に遅い。

過去30年、Eメールのユーザビリティでの唯一の進歩は、hop1!hop2!hop3スタイルのアドレス方式を使わなくてよくなったことだろう。この方式では、メッセージがたどるネット上の経路を、ユーザが把握していなければならなかった。

ユーザIDはメインフレーム以外では無用

固有のユーザIDという概念は、メインフレームの時代には確かに有効だったかもしれない。ひとつのコンピュータを、たかだか数百人のユーザで共有していた時代だ。当時は、自分の名前や、その他、好きな識別子をユーザIDにできるのが普通だった。また、ユーザは、そのコンピュータひとつだけにアクセスできればよかったので、名前を元にしたユーザIDであっても、覚えておくことができた。

ウェブは、固有のユーザIDという概念を支える前提をひっくり返してしまった。成功したサイトには、数百万人ものユーザがいるので、自分の好きな名前を取得できる可能性はほとんどない。BobやMaryなどという一般的な名前は、ほとんど絶望的だ。綴りにKを使うJakobでさえ、私がサイトにたどり着くころには、もう誰かに取られている。

また、ユーザがアクセスするサイトの数は数百に及ぶから、彼らは数百のユーザIDを覚えておく必要がある。明らかに無理な注文だ。だから、彼らは自分のユーザIDとパスワードを書きとめておかなくてはならない。これでは、セキュリティ上、ユーザIDを設定した意味はほとんどなくなってしまう。

サイトへ登録しようという気持ちがあっても、誰にも取られていないユーザIDがなかなか見つからず、あきらめてしまうことも多い。短期的な回避策はこうだ。ユーザが指定した名前が使えないというエラーメッセージを出すことは仕方ない。だが、その後で利用可能なユーザIDのリストをユーザに提示することだ。ユーザに対して、「うまくいくまでやり直し」式のサイクルを2度と繰り返してはならない。名前を元にしたバリエーションをいくつか提示すればいいだろう(例:jakobN、jnielsen、jakob362など)。

長期的ソリューションは明白だ。身元管理をアーキテクチャの一部として組み込み、いったんインターネットにログインしたら、それ以外のサイトは、すべて中央のパスワード管理システムでユーザの身元を確認するのだ。

インターネットとWYSIWYG

インターネットを利用していると、どの情報がどのマシンに保存されているかということを常に意識させられる。どのEメールがラップトップにあって、どれはサーバにあるのか?メールは「サーバに残す」か、それともダウンロードするか?あることを片付けるには、どのウェブサイトに行けばいいのか?

ウェブのおかげでこの問題はいくらか軽減された。ユーザはマシンの名前を入力するかわりに、単にリンクをクリックするだけでいいからだ。単純なブラウジングに限定すれば、何がどこに保存されているかを知っている必要はない。

だがブラウジングの範囲を越えると、マシンの違いを意識せざるを得なくなる。ウェブ用に執筆している場合、手元のマシン上に1バージョン、もうひとつのコピーは(きちんとテンプレートにはめ込んだ形で)ファイアウォールの内側のステージングサーバに、そして「公開」用のコピーを、顧客がアクセスしてくる実際のウェブサーバに、といった具合だ。

更新を行おうとすれば、ライターは数多くのよくわからないステップを知り、マシンからマシンへと移動していく記事を追跡しなくてはならない。

コンピュータのユーザビリティ上で最大の進歩は、WYSIWYG編集が発明されたことだろう。見たものがそのまま得られる(What You See Is What You Get)方式のソフトウェアでは、印刷したときとまったく同じ体裁の文書が画面に表示される。2つの概念が統一化されたことで、文書の状態を意識する必要がなくなり、いろんなフォーマット用コマンドが、どんな影響をもたらすものかも明らかになる。

インターネットのユーザビリティ向上のために、新たな形の統一化が必要だ。現代世界では、もはや画面と紙の統一化など必要ない。実際、ウェブページの見え方には一通りしかなく、他のユーザの画面上でもまったく同じように見えるなどと思わせることは有害である。だから、私は文字通りのWYSIWYGを求めているわけではない。

統一化の一例として興味あるものに、UserLand Softwareが出しているウェブオーサリングプラットフォームに備えられた「Edit This Page」機能がある。ここではウェブサイトと執筆用インターフェイスの間に区別はない。作者は、公開されているウェブサイトを他のユーザと同じようにナビゲートする。ページ上のテキストに変更を加えたくなったら、特別の「Edit This Page」ボタンをクリックするのだ(オーサリング権限を持っていない通常のビジターには、このボタンは表示されない)。

「Edit This Page」は、メタファー的に言うと、インターネット時代のWYSIWYG統一化である。これによって垣根がひとつなくなり、ユーザの心配事がひとつ減る。Epinionsでも同様のアプローチをしている。自分の書いたレビューを見ているときには、ページ右側に「edit」ボタンが表示されるのだ。このため、特別なことは何もしなくていい。タイプミスを見つけたら、その場でそれを直す。サイトから離れる必要はない。

IMAPがEメールに関してとっているアプローチは、統一化へのひとつの試みである。、どこに何があるかを気にする必要なく、クライアントとサーバの双方でEメールを扱うことができる。残念ながら、知っておかなければならないことがまだ少し残っている。飛行機にラップトップを持ち込んだら、アクセスできるEメールは手元に保存してあるコピーだけだ。どこでもワイヤレスでインターネットを利用できるようになれば、本当にシンプルなアプローチでコンピュータのネットワークが利用できるようになるだろう。そうなれば、ネットワークの存在すら忘れてもかまわない。

1999年9月19日