なぜユーザビリティがコンピュータで問題になったか

  • 黒須教授
  • 2000年11月27日

ユーザビリティの問題は、今ではヒューマンインタフェースの分野の中心的課題となりつつある。ちなみに、ヒューマンインタフェースという言い方は日本では一般的だが、欧米ではHCIすなわちヒューマンコンピュータインタラクションという言い方の方がよく使われている。ということは、コンピュータと人間との関わりが問題であるというわけである。そうした名前を冠した学会も幾つかある。そうしたコンピュータと人間の関わりの中でユーザビリティが問題として大きく取り上げられているのである。

ユーザビリティという問題が、それまでに取り上げられてこなかったかというと、そうではない。人間工学や品質管理の分野では、使用性ということばで同じような概念が使われてきた。では、なぜコンピュータとの絡みの中でユーザビリティという概念がこれほど注目されるようになったのだろうか。

その理由は幾つか考えられる。コンピュータというものが、ソフトウェアという論理の組み合わせによって動作し、そのソフトウェアによって、人間の思考能力の限界まで、時にはそれを越えるところまで知的な処理を行うことができるため、人々はそれに圧倒され、それに飲み込まれまいと真剣勝負をすることになってしまったという見方もできる。また、そのソフトウェアは作り方に大きな自由度があり、作り方しだいで、人間にとっての知的な負担の量が変わるものだということも大きな理由として考えられる。

しかし、それらの理由と同時に考えねばならない点として、コンピュータの技術的進歩が急速なあまり、またその応用範囲が広くて生活の環境の中にいろいろな角度から広く入ってきたために、人々が適応するだけの時間的余裕がなかったことがあるだろうと私は考えている。

考えてみれば、我々の生活環境の中には、人間の知的な負担を要求するものはコンピュータだけでなく、その他にもいろいろある。たとえば自動車の運転操作がそれである。まったく運転のしかたを知らない人を運転席に座らせても、おそらく車は動かないだろう。あるいは安全に動かすことはできないだろう。それは、自動車の運転が複数の操作の組み合わせになっていて、高い人間の認知的負担を要求するものだからである。

しかし、車の運転については、あまりユーザビリティという言葉をきかない。なぜなら、車の場合には、一通りの運転ができるようになるまでに教習所でしっかりと訓練を積む必要があり、免許という形で、一定の資格要件を満たした人だけがそれを利用するような社会的仕組みになっているからである。それと同時に指摘すべきは、車というものが「そういうものである」という社会的な認識が形成されていることだ。

もちろん、車の運転操作が最適なものになってしまっていると言い切ることは難しい。現実に、今でも車の運転について情報技術を利用した改造案がいろいろと検討されている。ただし、そうした努力は、一定水準まで到達した車のユーザビリティを更に高めるためのもの、ということができよう。

そうしてみると、コンピュータでユーザビリティが問題視されていることには少なくとも二つの側面があるといえるだろう。一つには、車のように「そういうものである」という社会的認識が形成されるほどには、まだコンピュータが社会の隅々まで普及していないという状況がある。すなわち新しいモノに対しては、人間は一種のショックを起こしてしまいがちであるということ。それと同時に、その状況が「そのようなもの」として受け止められてくるようになると、あまり(そのような意味においては)問題にされなくなるというような側面があるということを指摘すべきだろう。そして他方には、そうしたショックがおさまった状態でも、なお検討すべき余地が残されているというような側面があるのだ。本来のユーザビリティというのは、実はこの後者の方の問題であるように思う。

もちろんデジタルデバイドの問題は重要であるし、キーボードリテラシーに始まるコンピュータリテラシーの問題も重要である。しかし、どちらかというと、それらの問題は、コンピュータが今以上に普及し、それに関連した教育体制が確立し、人々が、ちょうど車の教習所において習得すると同等の知識や技能を身につけてしまえば、それほど大きな問題にはならなくなるような気がする。そのような状態では、車の運転の場合に自分の考えで敢えて免許をとらない人がおり、必要に応じてタクシーというような交通手段を利用するように、コンピュータについても、自分には(自分で操作できることは)必要ない、と判断した人はそれを利用せず、自分で利用したいと思った人は「それなりに」操作できるようになるのではなかろうか。

むしろ、我々が将来に対して研究し、検討していくべきことは、そうした状態になっても、なお、効率的でない、効果的でない、不満足を与えるようなインタフェースになっていないかどうか、という点ではないだろうか。それこそが本来のユーザビリティの問題であるように思う。