言語のユニバーサルデザイン

  • 黒須教授
  • 2002年5月20日

ユニバーサルデザインという言葉はかなり広まってきたが、どちらかというと障害者への対応と高齢者への対応が中心になっているように思う。しかし、ユニバーサルデザインという概念を「すべての人がそれなりに自分の目標を達成できるようにするデザイン」と定義するならば、すべての人に関わる多様な次元が皆関係しているはずである。その中には、障害、年齢のほかに、性別、文化、言語、身体属性なども含まれるだろう。

文化と言語の問題は似ているけれど厳密には別のものである。中国人の文化は、中国にも台湾にもシンガポールにも、またアメリカやその他の国のチャイナタウンにも多少変化しながら生きている。しかし、中国や台湾では中国語を話しているが、シンガポールではメインは英語であり、アメリカなどの国にいる中国人は、それぞれの地元の言語を話している。反対に英語という言語は、本国のイギリスだけでなく、アメリカでも母国語となっており、その他多くの国で通用する。しかし、英語やフランス語のように多くの国で使用されている言語を除くと、基本的にはそれぞれの国で違った言語が公用語とされており、国によって複数の公用語を設定しているところもある。

ユニバーサルデザインの観点からすると、言語の問題は解決方法の難しい問題である。世界中の人々が飛行機で移動するようになり、Webを閲覧するようになった現在、それぞれの人が母国の公用語にこだわっていると、理想的な自動翻訳装置でも開発されない限りは、お互いに意思疎通ができなくなってしまう。

町中のサイン表示や機器のボタン表示などの場合、マーケットに合わせて複数の言語を併記することも可能ではあるが、表示がごちゃごちゃする上に、すべての言語を網羅できないという問題がある。たとえば、日本で使用される機器やシステムの表示に関して、日本語を基本として、英語と中国語と韓国語を併記すればかなり親切なインタフェースにはなるだろうが、フランス語圏の人やスペイン語圏の人には時に通用しないことがある。また浜松のようにブラジル日系人が多い土地では、むしろポルトガル語の表示が必要なこともある。もちろん小さな機器では表示面積が少ないために、英語を併記できればまし、という状態である。

英語が通用する国が多いことから強引に英語を第二公用語にしてしまうという考え方もあろうが、しっかりした教育に裏打ちされなければかけ声だおれになってしまうだろう。また諸外国に対して英語を第二公用語にしようと呼びかけても、すべての国ですんなりと賛同されるとは思えない。

英語がこれだけ広まった背景には、イギリスの植民地政策という歴史的事実がある。植民地政策自体は必ずしも良いこととは思えないが、世界で通用する言語の候補として英語が考えられるような素地を作ったという点ではそれなりの貢献をしたといえるだろう。フランス語にしてもスペイン語にしてもポルトガル語にしても、同じような歴史的背景がある。もっと昔にさかのぼれば、それ以外の多くの言語についても近隣諸国の属国化や他民族の征服が言語的統一に「貢献」してきたわけだ。

こうした背景があるからか、英語を母語としているイギリス人やアメリカ人は、英語が世界中で使えることにあまり不思議さを感じていないようである。いや、むしろ使えて当然というような態度が見え隠れしている。こうした傾向は、英語を世界の第二公用語にする上では強く問題にすべきだろう。たとえば国際会議などで英語を公用語とする、というのは今では当然のことのように思われているが、考えてみれば本当にそれでいいのかという疑問が湧く。たとえばアメリカの学会でありながら国際学会を指向している筈のACMなどでも、大会では英語の品質が査読項目に入ってしまっている。彼らには、それがアメリカ人など英語を母語としている人々に有利になっているという配慮が見受けられない。学会の発表でも、英語を母語としない人々に対する配慮が欠け、早口で、しかも英語のはやり言葉を交えたような発表が多数見受けられる。こうした傾向をあらため、英語には世界中に方言があるし、英語の品質で論文の善し悪しを判断すべきではない、といった考え方にならないと、言語の面で学会というシステムをユニバーサルにすることはできないだろう。もちろん、きちんとした英語を使えるようにする努力を怠って良いわけではない。

いわんや日本で開催される国際会議であれば、公用語の一つとして日本語を含めるべきだろう。(と、いいながらも、私自身が大会長を担当したINTERACT2001ではイギリス英語を用いるべしという親組織のIFIPの規則があったためにどうしようもなかった)。しかし、たとえば日本人が企画した国際会議であれば、公用語として日本語を含めないのでは日本で開催する意義が低下するといえよう。とかく国際会議を担当したりそこに参加する人々には英語を得意とする人が多い。こうした傾向も英語偏重の原因の一つだろうし、日本人の欧米に対する迎合的な意識がその根底にあるともいえるだろう。

このように、言語に関するユニバーサルデザインを考える場面は身近に沢山ある。しかし、解決への道はとても遠いといえるだろう。