「障がい者」という表記

「障害者」を、音はそのままに「障がい者」と表記だけを変えるというのは中途半端に思える。それよりは、「不自由者」というの表現を使うようにしたらどうだろう。

アクセシビリティやユニバーサルデザインにおいて特に重要になるこの言葉、どうも表現に抵抗があって使う気にならず、どのみち同じことじゃないかということで、これまでは「障害者」という表記を使ってきた。しかし、ちょっと考えて調べてみた。

そもそも「障がい者」という表現に対して僕が抱いた抵抗感というのは、平仮名にしたから元の「害」という字のネガティブなイメージを捨て去ることができ、和らいだ印象を与えるようになる、といった発想(誤解してたらすみません)が何となく嫌だったということだ。「害」を使わないというのは言葉狩りというか文字狩りの一種ではあるが、音はそのままにして、表記だけを変えるというのは中途半端であるように思えたからだ。

「それでは『がい』という部分は漢字にするとどうなるのですか」と聞かれたらどう答えるのだろう。「いや漢字はありません」と言い切るのは少し飛躍がある。やはり「害」なり「碍」なり「礙」なりに戻らざるを得ない。いいかえれば、「障がい」という表記は、これらの漢字の持つ意味を捨て切れていないのだ。

そもそも「障害」にしろ「障碍」にしろ、あるいは言海にも掲載されている「障礙」という表現にしろ、さらに「障がい」にしろ、「物事を予定通り進める上で邪魔になるもの。」(新明解国語辞典)とか「ササハリ、サマタゲ、邪魔」(言海 ちなみに読みは「志やうげ」となっている)という意味である。他方、「障害物競走」などで使われる「障害物」というのは、障害「になる」物のことである。この考え方からすれば、「障害者」というのは、障害「をもった」人というよりは、障害「になる」人という意味になるわけで、「がい」という平仮名を使いたい気持ちは良く分かる。両親ともに身体障害手帳を持つことになり、僕自身、色覚障害というマイナーな「障がい」を持っている身としては、なんか胸のなかを刺されるような気がしないでもない。(ところで、障害にマイナーとメジャーがあるという区分けは、障害をもっている人たちの中にもたまに見られる傾向なのだが、そんな程度の差に目くじらたてることはないだろう、というのが僕の「気持ち」である。障害の中における差別、というような気もする)。

じゃ、どうすればいいのか、という話だが、「肢体不自由」という表現ですでに使われている「不自由」という言い方をするのがいいのではないか、と思っている。この表現は、調べてみたら、昭和3年(1928年)に、高木憲次さんが提案したということだ。彼の「自分は唯自分自身が不自由に感じている丈けのことであってその上、何も他人から余計な批判をされなければならない責務も負い目もないはずだ」という不自由者の主体的な気持ちの表現は、なかなかさっぱりして気持ちが良い。

このロジックを拡張して、身体不自由者(従来の肢体不自由者と混同されやすくなってしまうが)、視覚不自由者、聴覚不自由者、内部不自由者、色覚不自由者(順不同です)、精神不自由者、知能不自由者等々の表現を使うようにしたらどうだろう。不自由なのは、何も器質的、機能的なことだけからくるのではない。環境や社会が原因になっていることもある。また、妊娠した状態や重いスーツケースを持った状態も不自由と表現できる。

不自由になると人間は「自由になりたい」「自由でありたい」「自由であればなあ」という気持ちになる。そのもがきの気持ちを的確に表現する表現として「不自由」が良いように思う。「障害」にしろ「障碍」にしろ「障礙」にしろ「障がい」にしろ、「不自由」と比較すると、視点の位置が異なっているように思う。「不自由」が、当事者の内発的表現であるのに対し、こちらは、どうも客観的というか、医師などの外部の人間が「それ」を表現しているような視点、さらにいえば視線を感じてしまう。極端にいえば「じろじろ見られて、結局ネガティブに表現されてしまう」感じがある。

英語などの外国語との対応をどうするか、という点については、あまり気にする必要はないと思う。これはあくまでも日本語における語義や語感の問題であり、外国語との対応については、従来「障害」が位置づけられていた対応関係を継承すればいいだろう。

ともかく、「障害者」なり「障碍者」なり「障礙者」あるいは「障がい者」という言葉を目にしたり、書いている文章に使おうと思ったら、すぐに「障害物」という言葉があることを思い出すべきだろう。「障害物」が「障害となる物」を意味している以上、それらの人間に対する表現は、それを使った意図はともかくとして、字義的には「障害となる人々」いいかえれば社会や他人にとって障害となるような人々ということを意味することになるわけで、適切な表現とは思えない。そうした理由から、表記はどうであれ、障害を持った人たちを「しょうがいしゃ」(四つの表記を音でまとめました)と呼ぶのは適当ではないと思う。

なお、「障害を持つ」という表現は、特に殺してしまう必要性は感じない。障害は、それを持つ人にとって妨げになり厄介なもの、というニュアンスの概念であり、不自由者にとっても「この厄介な奴め」と客体視できるものだからである。

こう提案していても、自分自身、「障害者」と書いてしまうことが以後絶対に無いとは言い切れない。長年、使ってきた習慣を改めるのはなかなか容易なことではないからだ。ただ、気持ちとしては「不自由者」を志向して行きたいと思っている。

Original photo by Marshall Astor

公開:2012年12月25日
著者:黒須教授

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