ユニバーサルランゲージとコモンランゲージ
ICCE(International Conference on Computers in Education)という国際会議にきて、英語教育に関係している言語学の人たちと話しをすることができた。実は、インターネットを使った教育が普及すると、それは国境を越えた教育になり、そこでどのような言語を使うべきかということが検討課題の一つになってきたのだ。
インターネットの世界もそうだし、航空機に関する管制やチケットの世界もそうだが、英語がデファクト標準になってしまっている世界というものは結構ある。しかし、教育の場において英語が必須要件となり、英語を知らなければ教育を受けられないということでいいのだろうか、という疑問が湧くのは当然である。いうまでもなく、言語は思考を規定する。となれば、それぞれの文化や言語に固有の考え方や感じ方を英語という言語に統一することで画一化してしまうことには問題があろう、というロジックである。
これはユニバーサルデザインにおいても共通する課題である。ユニバーサルデザインの実現方法には、段差をなくしてスロープにしたり、エレベータを設置したりというように、誰もが利用できる共用品をめざす方向がある。しかし、それと並行して、衣服のサイズが多様であるように、それぞれの人の特性に応じて違った機器やシステムが用意され、人々は自分にとって高いユーザビリティを持つものを使えばいい、という方向もある。
言語や文化の問題もユニバーサルデザインでとりあげるべき課題の一つなのだが、言語において共用品的なアプローチをとろうとすると、いずれかの言語で世界を統一すればいい、という発想につながる。たとえば英語を学習しておけば、世界中どこにいっても不自由することはないというわけだ。こうした考え方はユニバーサルランゲージという概念で表現されているが、これは弱肉強食の支配的世界観につながるということで、言語教育の世界では一般的には排除すべき言い方と考えられている。
その意味で、多くの人々が便宜的に利用する言語、という意味でコモンランゲージとかグローバルランゲージという言葉が使われているのだそうだ。これは、ある時代において、経済的な理由、歴史的な理由から、たまたまある言語が多くの人に使われる、という意味合いであって、ユニバーサルランゲージという概念ほど権力的なニュアンスはない。
しかし、それにしても非英語圏の人間にとって、英語はセカンドランゲージとして必須なものとなっているのが現状である。その意味では、ユニバーサルランゲージという用語を使わないというのは、英語圏の人々の免責にしかなっていないような気もする。英語圏の人々には、自分たちが植民地政策によって英語を広く世界に広めてしまったという歴史的反省はあまり無いようにも感じられる。
もちろん、何らかの形でコモンランゲージがあるに越したことはない。いや、任意の言語の間で簡便に利用できる自動音声翻訳機が完成したり、任意の国語で書かれたWEBページの翻訳精度が完璧な状態になるというような技術革新が達成されないかぎり、コモンランゲージとしての英語の存在は一種の必要悪だといえるだろう。したがって、国際会議で英語のために苦労を強いられる日本人はこれからも多く存在し続けることだろうし、e-learningサイトを含めて、国際的に参照されることを目的としたサイトは英語で書かれることが多いことだろう。
Webというバーチャルな世界は一気に世界中でつながってしまったが、そうでないリアルな世界は、いくら旅行が容易になり、短時間で目的地につけるようになったとしても、今でも、そして将来も、国や地方という地理的な領域に限定されるだろう。その意味では、ローカルなWebのデザインにおいては、その地域で使われる言語をファーストランゲージとして用い、セカンドランゲージとして英語を用いる、ということで多くの場合対応が可能だろう。しかし、その地域で使われている言語というものも、この単一民族といわれてきた日本ですら多様化しつつある。現在では、駅の表示などの公共掲示には、英語の他に韓国語や中国語が併記されることが多くなってきたし、日系ブラジル人の多い地域ではポルトガル語の併記も多く見かけるようになってきた。こうした対応は、インドのように多言語の国ではもっと事態は大変だろう。
表示や掲示ではスペースが限られているという問題がある。またWebでは複数言語のページを作る開発費用と時間の問題がある。その意味で、複数言語への対応という問題は、容易には実現できない。そうなるとコモンランゲージの登場が要請され、人々はその言語の習得を迫られることになる。国内のケースでも、国際的なケースでも、コモンランゲージを母語としている人々にとってはどうということはない。しかし、それを母語としていない人々の立場に立ったとき、コモンランゲージという概念ですら、人々にストレスを与えている可能性があるのだ、という認識と反省は、少なくとも持ち続けていく必要があるだろう。