医療情報システムのユーザビリティ
医療に関連したユーザビリティ活動というと、従来は検査診断機器に関連するものが多かった。血液分析装置などの検査機器の場合にはそれを利用する医師や検査技師をユーザとして、機器の操作部位の最適化や表示の最適化が検討された。こうした活動は人間工学や認知工学的な観点に基づくものが多かったが、ユーザの協力を得て、現場でのフィールド調査を行い、利用実態に適合したインタフェースをデザインする活動も行われてきた。他方、MRIなどの診断装置の場合には、医師や検査技師というユーザの他に、検査対象となる患者さんをも対象者として、その最適化が行われた。前述のような人間工学や認知工学的なインタフェースの最適化の他に、患者さんの視点から不安感を与えず、出来る限り快適な環境を構築するようなデザインが行われてきた。これらのデザイン活動は、有効で効率的で、かつ満足感を与えるシステムの設計を目指すものであり、まさにISO9241-11に規定されたユーザビリティを目指しているものといえるだろう。
近年、医療にICTが導入され、電子カルテシステム(Electronic Medical RecordもしくはElectronic Chart)の設計が盛んになると、今度はコミュニケーションや意志決定という視点からの最適化が検討されるようになった。こうした分野は医療情報学(MI: Medical Informatics)または健康情報学(HI: Health Informatics)と呼ばれ、そのプロセスの中での情報の的確な入力や出力だけでなく、関係者の間での適切な情報の伝達と認知、さらにそれによる適切な意志決定の確立をめざして検討が進められている。医療サイドと患者サイドとの間で対話による物語構築を行い、情報の共有と創造、そしてそれにもとづく適切な方針決定を目指すナラティブベーストメディシン(NBM: Narrative-based Medicine)というアプローチは、日本では富山大学の斎藤先生が積極的に推進しておられるが、これもこうした方向性での活動の一つと言えるだろう。この他にもClinical InformaticsとかNursing Informaticsとか、医療場面に関する広義の情報学は様々な方向で盛んになりつつあるようだ。
先日、テキサス大学の健康情報科学大学院(Health Science Center at Houston, School of Health Information Sciences)を訪問し、学部長のSmith先生や副学部長のDunn先生など関係者とミーティングを行う機会があった。ここには日本人の青木先生がおられ、HIに関するNPOを設立してその普及に頑張っておられる。またユーザビリティを専門とするZhang先生がおられる。彼はユーザビリティの立場から医療の問題に取り組んでおり、まだ米国でも数少ない研究者の一人である。また認知心理学の視点で、医療におけるコミュニケーションの問題に取り組んでいるJohnson先生もおられる。なかなかの陣容である。
いろいろな議論ができたが、今回の焦点は医療における情報の取り扱いについてだった。たとえばカルテ(MR)の解釈が医師同士でも異なることの原因は何か、それをどうすれば防げるかということ。遠隔医療(tele-medicine)のインタフェースをどうすれば適切な情報の共有ができるかということ。ま、これは広大なテキサスだから切実な問題なのかもしれないが、日本でも国内に散在する医療機関の間をどのようにネットワーキングするかということは、適切な医療を目指すためには重大な問題だろう。テキストのような記録には残らないが、会話によるコミュニケーションは現場ではとても重要なものであり、その内容をどのようにして他の関係者に知らしめるかということも課題の一つ。電子カルテシステムについては、その利用形態がまだ試行状態にあり、情報の伝達や参照が十分に行われているとはいえず、それをどのように変えて行くかということも重要。などなど、今後の共同研究体制を前提に、いろいろと検討すべき課題を探るミーティングを行った。
医療の問題は、自治体行政の問題などと同様に、それを純粋な意味でユーザブルにすることが求められている。この点は、製造業など企業におけるユーザビリティ活動とは大きく異なる点だ。企業では、ユーザビリティを一つの商品の魅力と考える。したがって、他の魅力とのトレードオフで、その扱い方が変わってしまうこともある。しかし医療においては、利益追求という観点とは独立にしてユーザビリティを考えることができるし、その必要性がある。
そんなことから、試行的にまず問題点を整理する枠組みを同校に滞在しているTさんと一緒に考えてみた。まず、医療における情報に関係する人々のリストアップ。私のリストにTさんが追加してくれて、医師、看護師、保健師、助産師、臨床検査技師、診療放射線技師、薬剤師、療法士(理学・言語etc.)、栄養士、ソーシャルワーカー、事務、救急隊、患者、家族などがリストアップされた。
次にこれをマトリクスの行と列に配置し、行を情報の発信・作成者、列を情報の受容・参照者として、各セルに行の人が発信した情報をどの列の人が参照しているかをマークしていった。場面としてはカルテ、説明資料、カルテ以外のメディア(メモなど)、カルテ以外のメディア(会話など)の四つである。
こうして四つのマトリクスが構成され、そのセルに○が記入されたパターンを見ると、それだけでも色々と面白いことが分かってきた。誰それはコレコレの情報を参照することなく自分で情報を発信するだけであることとか、誰それは情報センターのような形で集約的に情報を参照しているが、同じような立場の別の人たちと本当に適切なコミュニケーションを取っているのだろうかとか・・。
現在、このマトリクスをベースに、こうした問題点を書き出したり、各○の場所、あるいは空白の場所に、その組み合わせにおける問題点を記入したりする方向で検討を進めつつある。
今後、そうした問題点に対する解決の仕方を考え、またマトリクスが四枚構成されてしまっている現状に対して、マトリクス間の情報の移動・参照をどのようにすべきかを考えてみたい。
医療における情報インタフェースのユーザビリティというのは、正にこれからが正念場だ。研究的にはとても面白く、また実際にとても重要な課題だと思っている。