ユーザ工学と民族学や歴史学との接点

この発想は、いま総研大に在学中の安藤さんに指摘されたもので、それを自分なりに発展させて考えている。安藤さんは今、長期的ユーザビリティというテーマで研究をしているが、その関連で、日用品として使われているものに対して、多様な民族や昔の人々がどのような意識をもっていたのかを調べてみるような研究を提案した。

たしかにそれは面白いテーマだ。目を世界全体に転じると、生活や仕事の目標達成のために実にさまざまな人工物が使われている。歴史的に見ても、この日本だけでもさまざまな人工物が使われてきた。人間の想像力の多様さを示す格好の事例といえるだろう。

さて、そうした多様な人工物があるとして、そうしたモノやその使い方を調べるのが民族学や歴史学の一つの目的だったわけだけど、その人々がそれらの人工物に対して、どこまで満足していたのか、ということになるとこれは良くわからない。歴史学的にはなかなか資料がないだろうから難しいかもしれないけど、民族学なら現在の人々を扱っているわけだから、やろうと思えば調べることは可能なはず。

ユーザビリティは目標達成に対する人工物の適合性を問題にする。その意味で、最適、と考えられる人工物があれば、全世界がその人工物デザインに集中していってもしかるべきなのではないだろうか。もちろん利用状況の違いはある。寒冷地と温暖地、熱帯では気候の違いがあるから、手袋をして操作できるモノと素手で操作できるモノの違い、獲物となる動植物の違いなど、様々な環境的、状況的な要因の違いが考えられ、それに対応した人工物デザインの違いがでてきて当然と思われる。

たとえば弓。洋弓と和弓の違いはしばしば指摘されていて、命中度からすれば洋弓の方が高いというのが定説になっているようだ。また威力という点ではウィリアムテルの使っていたようなボーガンが勝っているといえるらしい。しかし日本では和弓だった。それはなぜなんだろう。実際に敵を討つためでなく、的を射るという弓道の道具となってしまった現在では、むしろ命中力の高くない道具を使っていかに的確に的を射るか、ということが目的になっている。社会状況の変化が利用目的を変化させ、弓道という形で新しい人工物の位置づけができてしまったからだろう。しかし、そもそも日本では洋弓のような、ボーガンのようなデザインが出てこなかったのだろうか。発想の限界だったのだろうか。それとも素材の制約の問題だったのだろうか。

獲物を捕るという意味で、アボリジニはブーメランを発明した。弓矢の矢はしばしば取り戻すことができないから、その意味で手元に戻ってくるブーメランは経済的だ。しかし彼らが弓を使わずブーメランに「固執」したのはなぜなのだろう。そして彼らはそれで満足していたのだろうか。

大量生産の工業製品になると大資本の力でそれが世界を席巻することが多い。コカコーラしかり、ハインツの缶入りスープしかり。しかしそれは資本の力であって、必ずしもユーザビリティが優れていたから世界中に広まったとはいえない場合も多いだろう。

最近、ユーザビリティの下位概念の中で満足ということに注目している。ユーザビリティテストでは満足についてSUSやWAMMIなどの質問紙調査をすることがいちおう標準となっているが、そもそもユーザビリティテストのような短時間の調査で満足感が評価できるといえるのか。ずっと疑問に思っている。いや、そこでは満足と答えても、それがずっと使いつづけることの保証にはならない。最終的な意味で満足できることの保証はない。逆に不満と答えても、長期的には満足できるようになることもある。

たとえば自転車。あれを2,3時間トライしただけでうまく運転できるようになる人は運動神経の良い人だ。でもできない人も多いだろう。瞬間値としての満足度が低く評価されることもある。しかし、それから練習をしていれば、2,3週間して乗れるようになり、満足度が急上昇することも考えられる。

このように満足という評価尺度は、特に長期的ユーザビリティとの関連が強いように思っている。その意味で、民族学的に、また歴史学的に、長い間人々に使われてきた人工物に対して、人々がどの程度、またどのような理由で満足していたのか、あるいはいなかったのか。そのあたりを調べてゆくことはとても意義深いものだと思っている。

公開: 2006年5月16日
著者: 黒須教授

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