なぜ人工物発達学は必要か

  • 黒須教授
  • 2008年9月4日

人工物発達学がうまれるには、それなりの時代背景や社会背景がある。個人を単位とした生き方が許容され、多様な価値観の併存が許容され、さらに多様な人工物が選択肢として提供されるようになってはじめて、人間は、自分の目標達成のためにどのような選択を行うべきかを考える余裕を得ることになった。

まず、人間の生き方には集団準拠から個人を単位とした生活への転換があった。集団的斉一性は、国家や集落という階層の違いはあっても、そこに帰属する個人の生き方に制約を加えるものであり、それは20世紀に至るまでかなり強力なものだった。士農工商などの身分制はその典型である。20世紀前半でも、アーティストなど一部の人たちを除き、まだ斉一性に束縛される生活をしている人々が圧倒的だった。一部の国や地域で個人を単位とした生き方が尊重されるようになったのは、20世紀も後半に入ってからである。もちろん現在でも、特定の宗教、特定の地域において、集団的斉一性が強い規範となっているケースは多い。

何々様式という言い方がある。マケドニアの軍勢が利用したファランクスも様式の一つだし、ロマネスクやゴシックも様式である。一党独裁も民主共和制も、紅衛兵が毛語録をかざしたのも様式である。こうした様式は特定の社会集団において、そこに帰属する人々が同時代的に許容し受容したスタイルのことであり、常に離反者はいたものの、大勢はそれに従うことで集団に受容されることを無意識的にであれ望んだといえる。

その様式は地理的環境によって異なることが多く、ある社会集団に帰属するものは、他の社会集団に帰属する様式を採用することは認められず、そういう形で集団の斉一性は守られてきた。もちろん、ショッピングの際の手続きなど、多様な方法が共存することで利便性が損なわれることを嫌い、結果的にある社会集団で一貫したやり方が採用されている、というケースもある。

今後の詳細な分析が必要ではあるが、そのような斉一性の維持は、生活のある部分では厳格であり、異なる部分では寛容であった。たとえば、マナーやエチケットの本が各国で出版され、その社会的継承を図っているのは厳格さの例であるが、他方、アメリカで出版されたあるマナーの本では寿司をフォークで食べることを可としている。これなどは寛容さの例である。

個人を単位とした生活への転換の他に、特に工業製品という形で利便性を強調した人工物が大量に提供されるようになったことは、人々の選択の幅を広げた。利便性に対して否定的な見解を示すことがあるのは一部の宗教組織に限られるといえるだろう。製造業やサービス業は、収益をあげるため、次々と新たな選択肢を市場に投入し、それにより工業的人工物は飛躍的に発展をとげた。

現代が過去とこのような点で異なった時代だとすると、人工物を利用した人間の行動もこれまでとは違ったものになってきた筈である。その意味で、その状況を分析し、これからの人工物のあり方や、それを利用した人間の生き方を考える枠組みとして、従来の学問の枠では不十分になってきたといえる。

考古学や歴史学は、ある地域である時代にどのような人工物が受容され、どのような様式が流布していたかを整理し、それがどのような影響を受け、またその後の時代にどのような影響を及ぼしたかを明らかにしてくれる。しかし、その人工物や様式がなぜ「それ以外」の形を取らなかったのかについては語ってくれない。歴史に「もし」はない、という言い方があるが、敢えてそこに「もし」を導入し、人間の生き方、人工物の発達の仕方にライトを当てようとしているのが人工物発達学なのである。

また民俗学や文化人類学は、地域ごとの文化を調査し記述し、その特徴を明らかにしてくれる。比較文化学という領域があるが、それはこうした「典型的」文化の違いを比較することに重点を置いており、その対象の多くはまだ比較的純粋さを維持している発展途上国である。いいかえれば、特に現代の日本や欧米諸国のように、人工物が多様になり、雑多に混交している状況における人間行動という問題については社会学の一部の研究者以外、あまり手をつけていない。現代では、特に都市部において、人々は実に多様な生き方をし、多様な人工物を選択して利用している。世界中の文化が混交している。そうした状況の中で、どのような人工物が生き残り、どのような人工物が新たに産み出されるかを考えることは、人間の学としても、またそこに人工物を提供する側の方略としても重要である。

このような複雑な時代に、その時代を分析するためには、考古学や歴史学の時間的視座と民俗学や文化人類学や社会学の空間的視座とを交差させ、その時その場における人々の生き方と人工物の関係を整理する必要がある。人工物がなぜそのような形になり、なぜ他の形にならなかったかという人工物発達学の出発点となる疑問は、裏をかえせば、人はなぜ「それ」を選んだのか、「それ」は自分にとって最適なものなのか、という生き方に対する問いかけにもなる。また製造業やサービス業の観点からは、今、人々に提供している人工物がこの先どのように変化する必要があるのかを考えるための枠組みを提供することにもなる。このような意味で、人工物発達学は、ある面では生き方の学問として、また別の面では人工物デザインへの指針をもたらす学問として位置づけることができる。