立体映画や立体テレビの人間中心設計

最近、立体映画が流行っている。またソニーなど各社も立体テレビを出すようになった。これで世の中は二次元から三次元の時代に突入か、という雰囲気ではあるが、僕の首は少し、いやかなり傾いてしまっている。

最近、Avator, Alice in Wonderland, Coralineなど、立体映画が流行っている。またソニーなど各社も立体テレビを出すようになった。これで世の中は二次元から三次元の時代に突入か、という雰囲気ではあるが、僕の首は少し、いやかなり傾いてしまっている。

技術的にも利用状況的にも、映画館で見る映画とBDなどの視聴を含めたテレビとは多少異なるので、それらを区別して考えてみたい。

まず映画館での立体映画。これは昔々から試みられてきて、飛んできた槍だか矢だかが客席に向かってくるのを見て観客が大騒ぎした、などということが話題になった。この時代には、観客は右目と左目に赤と青のセロファン(左右どちらに割り当てるかは映画がどのように撮影されたかによってきまる)をつけた眼鏡をかけて見た。このときの眼鏡装着という問題は、その後の立体映画の普及を妨げる一つの要因となり、その後下火になってしまったという経緯がある。やはり人間は眼鏡をつけない自然な状態で見たいし、もともと眼鏡をかけている人には、その眼鏡装着は面倒なことだったからだ。

この時に使われた視覚心理学的な原理は「両眼視差」だった。要するに近くのものを見ている時は左右の眼に入るイメージにはズレが大きく、距離が遠くなるにつれて左右のイメージのズレは小さくなる。これを逆用して、左右のズレを大きくしておけば近く、小さくしておけば遠くに見えるというわけで、それを同じフィルムに焼き付けておき、右目用のイメージは右目だけに、左目用のイメージは左目だけに入るようにすればよい、ということだ。この原理は基本的に現在の立体映画や立体テレビでも変わっていない。しかし、実はそこにこの技術の普及を妨げる落とし穴もあるのだ。

人間の眼は、三次元的な外界を二次元的な面(ただし網膜は曲面である)に受容し、さらにそこから三次元的な世界を再構成しているという点で、とても巧みに作られたシステムである。その要因を調べる研究が進んで、単眼でも効果的な奥行き知覚の要因として、重なり、線形遠近法、画面上の大きさ(ただし所定のサイズが既知のもの)、肌理勾配などの静的な手がかりと、運動視差という動的な手がかりとがあることが知られるようになった。運動視差についていえば、視点の移動につれて近景が速く移動し、背景はあまり移動しないという事実を逆用して、遠景に見せたいものはあまり動かさず、近景に見せたいものは速く動かすように映像を制作することで、立体表現のテクニックとして利用できる。このノウハウは古くから知られていて、シンプルな形ではテレビのアニメなどでも良く使われているが、最近の立体映画を見ていると、特にこの運動視差を効果的に使うことが多い。つまり線形遠近法と運動視差を組み合わせて、実にリアルに遠近感を表現できるようになったのだ。そのためにパンやズームのテクニックが多用されている。これらの手がかりは単眼でも成立するもので、特に問題はない。

これに対して、両眼による奥行き知覚の要因が先に述べた両眼視差である。これは人間の眼が左右に付いていることを利用した手がかりであり、またそれを逆用すれば演出テクニックにもなるのだが、この問題は、実際に目で見ている刺激が三次元的な立体ではなくスクリーン上の二次元映像であるために、虚構的なテクニックを使わざるを得ない点だ。それが例の眼鏡である。眼鏡の技術も、赤青のフィルターという素朴なやり方から、偏光板を使うものもでてきたし、さらにテレビでは画面と同期して左右の映像を左右の眼鏡に交互に与えるため、電子シャッターを用いるようなものも登場した。ただし、どのようなやり方でも眼鏡が必要であることには変わりなく、その装着という手間が煩わしいという問題があった。

これに対して、古くは玩具にも使われていたレンチキュラー板という技術がある。これはスクリーン上の加工によって、眼鏡を使わなくても右目の情報は右方向から見たときに、左目の情報は左方向から見たときに、それぞれの眼に送り込むことができるもので、微細な調整技術を要するが、眼鏡から観客を解放する技術ではあった。

ただし、注意しなければいけないのは、どの技術を使うにしても、左右の眼に対して別々の情報を与えなければならない、という点である。ここが映画とテレビを分ける点になる。映画館では人々は椅子に座っている。だから観客にとっての左右はスクリーン上の左右に対応する。しかしテレビを視聴するとき、人々は自由な姿勢でそれを見ようとする。寝転がってみる人もいる。しかし寝転がると、画面上の左右と、人間の眼の左右が対応しなくなり、立体像は形成されえなくなる。技術的には生放送でも左右の眼に対応したカメラを使って両眼用の二枚の情報を伝送すれば、立体テレビは可能であるが、それはあくまでも技術的な話であって、テレビ視聴における「ユーザの利用状況」を考慮した場合には、立体視の形成は保証されないわけである。

もう一つ、根本的な問題がある。実は、三次元世界で人間が外界を見ているときには、眼球の調節と輻輳という生理的な手がかりも働いている。調節は距離に応じてレンズが薄くなったり厚くなったりすること、輻輳は両目の視線の交点が距離に応じて手前になったり遠くなったりすることだ。これについては、どんなに頑張ってみても、あくまでも二次元平面であるスクリーンや画面では再現することができない。

そうなると、両眼視差を利用した立体映画や立体テレビでは、調節や輻輳という生理的な手がかりでは平面に見えてしまっているスクリーンや画面に、両眼視差という手がかりを与えて、「強引に」三次元性を成立させようとしていることになる。この強引さについて、視覚心理学的にきちんと調べた研究というのは、僕が調べた範囲では見つからなかったが、おそらく、立体映画や立体テレビを長時間見ていられなくする疲労や画面酔いという現象に関係しているだろうと思っている。観客の頭のなかでは、平面であるという情報と立体であるという情報の二つが来るために、混乱が起きていて無理な統合処理が行われている筈だからだ。

要約すると、両眼視差のための眼鏡を利用しなければならないという不便さ、正立した状態でなければ両眼視差による立体視は形成されないという制約、さらに調節や輻輳という生理的手がかりとの間の矛盾に対する統合処理の負担、こうしたものが立体映画や立体テレビの自然な観賞を妨げることになっている。

さらには、両眼視差を利用する場合、右目と左目の情報にどの程度の差をつければいいかという点についてきちんとしたガイドラインができていないため、かなり誇張した視差が導入されているという点も視覚的疲労につながっていると思われる。

このように、根本的に解決できない問題を残した技術が、今後発展的に市場に普及するとは考えにくい。AvatorやCoralineを見た印象では、最近のCGは運動視差を実に的確に表現できるようになっている。その意味で、無理に両眼視差を利用した立体映画や立体テレビを市場導入するのでなく、自然に観賞できる立体視の手がかりを利用した製品やサービスを提供するようにするのが「人間中心設計」といえるのだろうと考えている。

公開: 2010年9月5日
著者: 黒須教授

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