改めて経験工学を
3. その展開

既存の人工物が持つ多様な機能を分析するのではなく、その中の特定の機能や目標達成に着目し、その機能が実現しようとしていたコトに置き換え、そこから分析を出発させることが良い。特定の製品やサービスではなく、本質的なユーザ経験の改善を目指すこと、これが経験工学のアプローチである。

事例:テレビ

ここでテレビを例に取り上げて考えて見よう。

テレビ離れという話がある。つぶれるのではないかと噂される放送局もある。この点については、しかしながら、テレビという人工物を目標に設定すると分析が誤った方向に行ってしまう。自動車の場合もそうだが、テレビという人工物は複数の目標達成に使われているので、分析は個別の目標達成を支援する機能ごとに行わなければならない。

ネットに人々が流れたからテレビが衰退したという説もあるが、テレビのもっている全ての機能をネットが持っている訳ではなく、両者の機能の集合は部分的に重なっているだけだから注意しなければならない。テレビという既存の人工物の枠に縛られているかぎり、その改良案や代替案を考えようという姿勢になってしまう。あくまでも視聴者の経験したいと思っているコトを出発点にしなければならない。また、その際には、その解決策をもたらすのがテレビという製品ないしその進化形であろうという予断は排除する必要がある。

たとえば、自分に関心のある出来事について満足出来る量の情報を知るコト、という経験目標を考えてみる。報道における情報量という点ではテレビは放送時間という枠に縛られているため、各種メディアのなかで一番不利な状況にある。東関東大震災のような大きなニュースの場合には特番を組んだりするが、そうなると通常だと放送されるような出来事が放送されなくなってしまう。やはり放送時間の枠の制約が厳しいのだ。

人々があてがいぶちの情報に満足しているような社会であればそれでもいいのだが、自分の知りたいと思うことを関心の程度に応じて知ろうとすると、やはりテレビという人工物の限界は決定的である。それでもテレビのニュース番組を見る人が結構いるのは、有料の新聞と異なり、受像器を持っていれば無料で情報が流れてくるからだろう。無料という点ではネットも同じだが、テレビとネットにはさらに視聴態度の違いもある。テレビがプッシュ型のメディアで、電源さえ入れておけば後は自然に情報が流れてくるのに対し、ネットはプル型のメディアで、自分で検索しなければ情報を手にいれることができない。この点もテレビの優位な点ではある。

しかし、これこれの事件や出来事があるということを知っていれば、それを深く知ろうという欲求も可能性も生まれうるのだが、そうしたインデックスがないと深く知ろうとする切っ掛けがなくなってしまう。多様な出来事を一覧できることは重要だ。もしかしたらテレビというメディアの将来は、そうしたインデックス機能という点にあるのかもしれない。色々なことがありました、ということだけ説明し、詳しくはネットで調べてください、という訳だ。こうした形でのテレビとネットの共存は考えられなくもないだろう。

もちろんテキストの文字数という点で新聞はネットやテレビに比べて圧倒的なメディアであるが、自分の欲しくないことにも多数の文字が割かれているという点、いいかえれば、知りたいことについて更に知りたいという欲求に答えられないという点を考えると、テレビよりむしろ新聞の未来の方が危ういかもしれない。もちろん、これは「知りたいことを知りたいだけ知る」ということについての予測だが。

また、テレビにしても新聞にしてもネットにしても、その時点で話題になっていることについては情報がもたらされるが、そうでないことについては情報を探すのが大変である。話題になっていないこと、あるいは以前話題になっていたことの現在を知るのは対話的に自分の目標とするトピックを検索できるネットですら容易ではない。

いずれ、人工知能と自然言語処理がもう少し進歩すれば、自分の欲しい情報を欲しい程度に、しかも容易な操作で入手することができるようになるだろう。そうなったときに初めて「色々な情報の存在を知り、欲しい情報を知りたい程度に深く知ることが出来るコト」が可能になるだろう。そうなって初めて、情報受信者としての経験は満足できるものになるだろう。

以上、情報提供メディアとしてのテレビの側面について大まかに考えてきたが、同様の分析をテレビの他の機能、いいかえればユーザの抱く目標の達成についても考える必要がある。その上で、テレビというメディアの近未来のあり方を総合的に判断することができるようになる。

人工物から出発するのでなく、コトから出発する

要約すると、既存の人工物から出発し、その持っていた多様な機能を分析しようとすると誤った方向に行くことが多い。むしろ、その中の特定の機能、特定の目標達成に着目し、その機能が実現しようとしていたコトに置き換え、そこから分析を出発させることが良い。そして、そのコトを実現するのが製品であるかサービスであるかに囚われることなく、ユーザの経験満足度という指標を意識しながら企画設計を進めてゆく必要がある。特定の製品やサービスを改善しようとするのではなく、本質的なユーザ経験の改善を目指すこと、これが経験工学のアプローチである。

公開:2017年5月10日
著者:黒須教授

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