ローカリゼーションのあり方

ローカライズしようとする側の素朴な親切心は理解できるものの、その裏側に潜む傲慢さの可能性を感じてしまった。ローカライズされる側の不快感について、日本はちゃんと理解してきたのだろうか。

  • 黒須教授
  • 2011年4月6日

ある地域で作られたものを他の地域で提供し、その地域の人々に利用してもらおうとする場合、その地域に居住する人々の生活や文化、習慣、社会制度などに適応させることが必要と考えられ、ローカリゼーションと言われる。これは、その人工物を作っている側からすれば、地域に適合させることで売り上げが促進されることにつながるため、現在では、その必要性が強く認識されるようになっている。

このように、現在では、ある地域で作られたものを、他の地域にそのままの形で提供するよりは、その地域に適合させた形で提供する方がいいと思われるようになってきたが、一方で、政治的あるいは経済的な力を背景にして、そのままの形で提供するというやり方もある。この方が、人工物を作っている側にとっては、ローカリゼーションよりは手間が掛からないし、在庫管理などもである。

たとえば、以前、ペルーの電気店で、英語表示のままのアメリカ製の電気洗濯機を見たことがあるが、ペルーでは英語は公用語ではない。こうした形で、利用者に地域の文化とは異なるものを強制するのは植民地時代以来のグローバリゼーションの動きであり、特にアメリカが行う場合、それはアメリカナイゼーションとも言われている。こうしたグローバリゼーションの考え方は、安直な植民地主義を背景にして発生したという歴史的経緯はあるものの、結果的に、人工物のインタフェースは共通化され、一貫性の原則が守られることにもなる。

人工物としての言語についていえば、現在、国際会議での公用語に必ず英語が含まれているのは、グローバリゼーションの典型的事例といえる。これが第二次世界大戦後のアメリカの政治力と経済力を背景にしたものであることは間違いない。日本人が比較的苦手とする英語での学会コミュニケーションではあるが、英語ができれば何とかなるという状況は必ずしも悪いことではないと受け止められている。開催地がスウェーデンになったり、フランスになったり、スペインになったりする度に、国際会議の公用語が変わってしまったのでは参加しようにも出来ない人が多発するだろう。しかし、それを良いことに、英語を母語とする人たちがネイティブのスピードで議論しまくる様子を見る度に、ああこれはやっぱりグローバリゼーションなんだなあ、と思う。英語を母語としない人々に対する配慮が全く感じられないでいい気になっている、と僕などは実に不愉快な気持ちになる。

このように、グローバリゼーションには、インタフェースの共通化と一貫性の維持というポジティブな側面と、地域性の無視や否定というネガティブな側面があり、ローカリゼーションとのバランスを取ることは案外難しい。

学会組織という人工物について、UPAはUPA International構想を打ち出し、世界をブロックに分け、それぞれの地域での大会を行うとともに、国際大会をブロック持ち回りでやろうという考え方を打ち出した。もともとのUPAはアメリカの学会組織だったが、スイス人のSilvia Zimmermannが会長になって、その国際化への脱皮を図っているのだ。これは、下手をすると欧州中心のグローバリゼーションになってしまう可能性はあるが、基本的にはインターナショナリゼーションを目指していると言っていいだろう。ただ、国際大会としての公用語は英語になるが……。

これに対して、ACMSIGCHIが2015年にアジアでの大会を開くことにして、そのためにアジア地域の声を聞こうという趣旨で、北京でワークショップが開かれた。2011年3月25日から27日の3日間だった。ただ、近年国際化を意識するようになってきたとはいえ、UPAと異なりACMはまだアメリカの組織である。明確にインターナショナリゼーションに切り替えるのではなく、徐々に国際化を図っていこうという趣旨なのだろうが、参加していた僕は、そこにグローバリゼーションの雰囲気を感じとってしまった。そこで、「アジアでSIGCHIを開催するなら、アジア特有の事情を考慮した大会にする必要がある。たとえば製造業のある国もあるが、ない国も多く、ない国では、インタフェース研究をしてもそれを反映する企業がないため、研究活動も活発とはいえない。ただ、多様な人工物の利用者ではあるので、製品のローカライズに関連したユーザ調査は行われる必要があり、研究発表よりはケーススタディの枠を広げた方がいいのではないか」という趣旨の発言をした。

しかし、そう言った後で、ローカリゼーションを活性化するといっても、その国での産業振興につながるとは限らないなどと考えて「ともかく、従来の枠組みのままで実施するにしても、ローカリゼーションのためのユーザ調査をやるにしても、技術的植民地化(technological colonization)にならないよう配慮が必要だ」と付け加えた。このtechnological colonizationという表現は、マレーシアのChui Yin Wongが考えてくれたものだが、的確な表現だと思っている。

日本は技術的にはそれなりに進歩した国であり、製品輸出も頻繁に行っているから、基本的な立場としてはローカライズをする側なのだが、今回の会議でアジア各国の代表と話しあっていると、ローカライズされる側の気持ちに共感する部分が大きくなってきてしまった訳だ。そして、ローカライズしようとする側の素朴な親切心は理解できるものの、その裏側に潜む傲慢さの可能性を感じてしまった。さらに、こうしてローカライズされる側の不快感について、日本はちゃんと理解してきたのだろうか、という気にもなった。

いいかえれば、ローカリゼーションは、グローバリゼーションに皮をかぶせるだけではいけない。本当に、現地の人々の生活様式を考えたローカリゼーション、そして、その立場を考慮した自立への支援を考えなければいけない、ということだと思う。製品のボタン表示に現地語の表示をするといったことだけでは十分とはいえない。たとえばワードプロセッサについていえば、日本語という2バイトコードを扱えるようにすることは最低限のローカライズだったが、それだけではなく、まず一太郎が、そしてMS Wordが追従したように、罫線という日本伝来の習慣、縦書きという習慣などをきちんと組み込むようなアプローチが必要になるだろう。こうした努力のおかげで日本ではワードプロセッサが必需品として普及する結果となった。同じ会議に参加していたインドのAnirudha JoshiやSanjay Tripathiによると、ヒンドゥー語では、まだ入力方式やキーボードが統一されていないという。インドの近代化はめざましいし、そのためには英語を利用した方がいいのかもしれないが、ヒンドゥー語をなんとかしてワードプロセッサに組み込みたいと考えているインドの人々を応援したい気持ちになった。

このように、ローカリゼーションを表層的にとらえてしまうと、それはグローバリゼーションへの皮かぶせに過ぎなくなり、植民地主義の片棒をかつぐことになってしまう。その意味で、本当のローカリゼーションというのはきわめて難しい課題なのだと思う。