インドでも台湾でも同じだった

「中国でのフィールドワーク講義体験」では中国の若い人たちの英語力の水準の高さと、新しい技術や考え方に対する強い関心とモチベーションを紹介した。そしてインドも、学会会場やホテルの敷地内はきちんとしているものの、一歩街中にでるとインド特有の混沌とした世界が広がっていた。ハングリー精神に基づいた強いモチベーションがありそうだ...

  • 黒須教授
  • 2012年6月29日

 2/24に掲載された「中国でのフィールドワーク講義体験」では、グァンジョウ(広州)での大学院生への講義の話と、シェンツェン(深セン)にあるHuawei本社での講演について述べ、中国の若い人たちの英語力の水準の高さと、新しい技術や考え方に対する強い関心とモチベーションを紹介した。

 その後、インドのプネ(Pune)で開かれたIndia HCI 2012に参加し、また台湾のペンフー(澎湖)で開かれたKEER 2012に参加し、さらに台北の近くのタオユァン(桃園)にあるHTC本社で講演を行い、アジアにおける「新興勢力」の勢いの強さを改めて感じさせられた。

 India HCIは、India HCIはインド国内のregional HCI conferenceであり、毎年開催されている。特徴的なのは題名がCHIではなくHCIとなっていることから想像できるように、技術よりは人間に中心を置いており、SIGCHIやINTERACT等に見られるようなインタフェース技術の発表がほとんど全くなく、代わりにユーザビリティやデザイン関連の発表が大半を占めていた。これにはインドならではの事情も関係しているようだ。つまり外国からの受注でソフトウェア生産をしているインドでは、自前の技術開発よりは、生産性向上やユーザニーズへの適合性といったことの方が重要なのだろうと思われた。その水準だが、採択率で調べたところおよそ50%であり、それなりの水準と思われたし、発表やパネルを聞いている限り、なかなか内容の濃いものがあった。

 この学会では”Usability and UX – Concept, Measurement and Design”という講演を行ったが、PPTのプリントアウトはすぐに無くなり、増刷されるほどだった。言い換えれば、それだけインドの関係者は新たな情報を摂取することに熱心である、といえる。

 インド特有の事情としては、数千年の長い歴史と伝統がありながら、依然として文盲率が24%、貧困層が40%いるということで、所得等、人々の間のダイナミックレンジは大きい。そうした状況のなかで、ソフトウェア産業を中心とした産業界の人々は、ともかくインド社会を牽引すること、そのために利益追求を怠らないことを目標にしているように見えた。たしかに、学会会場やホテルの敷地内はきちんとしているものの、一歩街中にでるとインド特有の混沌とした世界が広がっており、この社会全体を底上げしていくのは大変なことに思えた。いいかえれば、インドにはハングリー精神に基づいた強いモチベーションがある、ということでもあるのだろう。

 KEER 2012は感性工学と感情科学に関する大会であり、日本感性工学会が基軸になって隔年で開催されている大会である。学会も悪くはなかったが、印象的だったのは、その後に出向いた桃園市のHTC本社での講演であった。世界のスマートフォンメーカーのなかで第四位に位置するHTCの本社からの要請で、”Some Perspectives on the User Experience”という講演を行い、社員の皆さんとディスカッションを行った。講演時間は90分、質疑を30分と予定していたが、多分あっても2,3件の質問かなと考えていたこちらの予想を裏切って、予定の30分をオーバーし、20件くらいの質問が次々と出されたことには驚いた。彼らの関心はどのようにして望ましいUXを製品やサービスによって提供できるかという具体的で実践的なものであり、次いで、午後に講演した橋爪絢子さんの高齢者の携帯電話利用に関する調査報告も、30分の講演に対してやはり30分以上の質問が続いた。

 この元気さと活発さは何なんだろう、と思わず考えてしまった。僕は中国語がまだまだ駄目なので、使ったのは英語である。したがって質問も英語である。聴衆の皆さんは真面目で、かつ陽気で、積極的に、どんどん英語で質問してくる。この勢いの良さが日本に見られるだろうか、と思わず考えざるを得なかった。インドのIndia HCIでも同じような傾向があった。会場にいた学生達は臆すること無く、著名な講演者に対して積極的に質疑を行っていた。日本ではまずこういうことは起きないだろう。何故なのか、何故日本で行われる講演会などでは質疑が不活発なのだろう。

 僕にはこれはハングリー精神の欠如が関係しているように思った。日本に追いつき追い越せという精神は、日本との技術的・経済的格差に根ざしていた。日本をひとつのターゲットにして頑張ることが彼らの具体的実践活動になっているのだと思った。そして、今や日本を凌ぐ実力を持つようになったインドや台湾や中国、そして韓国の企業たち。その彼らは、まだまだ元気である。

 他方、日本人にはハングリー精神が欠けてしまっている。目標とすべき欧米には追いついたと思ってしまったのか、目標を見失っている。何が必要なのかが見えなくなってしまったため、必要以上の高級化や高機能化などに進んでしまってきた。恐らくその大半はデスクで考え出した発想にもとづくものだろう。ユーザが真に何を、どのようなものを求めているかが見えなくなってしまっている。

 もちろんポイントはハングリー精神だけではない。アメリカではマイクロソフトに代わって、グーグルが、そしてフェイスブックが台頭してきた。こうした新しい動きは、本来、同じ技術レベルに到達したのであれば日本から起業されても良かった筈だ。起業というキーワードは日本でも流行したが、その規模が、発想が貧困である。どうしてなのか。なぜ日本人は「やる気」を失ってしまったのか。いや「やる気」の喪失と共に、「やる気」を育てる風土が育っていないのかもしれない。

 ここからは全くの私的感想なのだが、日本人は「ゆとり」を追求し、レベルの高い生活を志向するようになってしまったあまり、「やる気」を育てる社会を構築せずに来てしまったような気がする。人生を楽しむのは結構なことなのだが、その反面、真剣に未来に突き進もうとする覇気が感じられなくなったように思えるのだ。個々人のハングリー精神とそれにもとづくやる気、さらにそれを受け止め真摯に醸成しようとする社会的仕組みの欠落。このあたりが改善されないかぎり、日本はかりそめのゆとりに溺れ、没落への道を辿るだろう。