「存在すること」に意味のある人工物

物体としての価値がある人工物は、物体としての価値が損なわれると断捨離せざるを得ないが、情報に価値のある人工物は、媒体(物体)から情報を抜き出して、媒体は断捨離してもかまわない、と考える。

  • 黒須教授
  • 2023年8月8日

断捨離や遺品整理

身の回りには不用品、文字通り「用いざる品」、いいかえれば特に使わないけれど何となくそこにあるというものがある。それらを処分して生活に調和をもたらすのは、過剰な存在を生活環境から削り取り、そこに平衡した状態を実現することであり、断捨離と呼ばれている。故人についていうなら遺品整理がそれに近いだろう。どちらの場合も対象になるのは「使われない」モノ達であり、ただそこに「存在する」だけのモノ達である。

したがって「使いやすさ」すなわちユーザビリティという考え方との対極に位置しているともいえる。いや、ユーザビリティだけでなく、ほとんどの品質特性に関してそれらを無視できる人工物の状態といえる。そこに求められるのは、処分しようとしたときの梱包しやすさとか移動しやすさといった品質特性だけだろう。(編注:「断捨離」は山下英子氏の登録商標です)

断捨離と遺品整理が異なるのは、その持ち主が自分であるか故人であったかという点である。断捨離の場合は持ち主が自分なので、そのモノ達はかつて自分が購入したり貰ったりしたものであり、それなりに気持ちの「引っ掛かり」はあるだろう。今はほとんど使っていなかったり、それがあることを忘れてしまったりしていても、かつては使おうとして、あるいは使えるかなと思って手に入れたものである筈だ。だから、また使えるかなとか、いつか使う時がくるかもしれない、などと思って処分の決断が鈍るのだ。

それに対して遺品整理の場合には、基本、故人という他人がため込んだものであり、整理を始めてからその存在を知ることになるものも多い。もしかして自分にとって価値あるものがあるかもしれないという気持ちになることもあろうが、お宝が見つかるようなことは滅多にない。それゆえに、遺品整理というのはあまり気乗りがしないものであり、いっそのこと業者に丸投げしてしまおうかという気持ちが起きてきたりするのだ。

その意味で、断捨離と遺品整理は現象的には類似しているものの、モノ達に対するスタンスは異なっている。今回は、断捨離についてもう少し考えてみたい。

情報としての等価性

筆者はこれまでに多数のモノを手に入れ、また多数のモノを処分してきた。ただ、けち臭い性分のため、処分するモノについては「情報としての等価性」を重視してきた。もちろんそれは情報化できるものに限られるので、衣類や食器、電気器具の類は処分したらそれっきりである。電気器具などは壊れてしまえば「使う」ことが叶わなくなるので、思い切りよく処分できるが、衣類などの場合には穴が開くとかしていなければ、その時に「悩む」ことになる。そして、悩んだ末にそれを処分してしまうと後になって悔やむことが多いのだ。普段使っていなかったにしろ改めて悩んでしまうということでその対象物が意識化され、その意識化によってその「良いところの価値」が再認識されてしまうのだろう。

さて、「情報としての等価性」を具体化した断捨離の例を挙げてみよう。たとえば7000冊以上あった蔵書を処分するときには、専門業者に送って電子書籍化をした。自炊ならぬ他炊である。それなりの費用はかかるが全部PDFにしてしまうのである。PDFと紙の本との違いは嵩張らないこと、重たくないことである。そして書籍としての情報は等価に保存されている。7000冊あっても1TBのポータブルHDDに収まってしまった。そしてHDDに入っているから探しやすい。エクスプローラの検索機能ですぐに目的の本を見つけられる。また本文中のキーワード検索も容易だし、マーキングもできる。引用したければコピー&ペーストをすればいい。また移動も容易なので、旅行などに行く時にもパソコンと一緒に携帯すれば実質、研究室丸ごとの移動ということになる。

そして7000冊が消えた我が研究室の書棚には、しかしながらまだ辞書や事典とハンドブックの類が残されている。これらはページ数が多く、業者から断られてしまったものだ。また画集も大量に残っている。これは絵画を見るにはある程度の版サイズが必要だと考えているからだ。もっともPDFにして大画面で鑑賞するという手はあるのだが、なぜか美術書の場合には紙というメディアにこだわってしまうところがある。画集は情報だけでなく紙という状態が重要だ、と考えているからかもしれない。

音楽については数千枚あったCDをiTunesによってWAVにしてディスクに保存し、基本そのCDは業者に売却した。これは結構な手間だったし、CDのジャケット情報が惜しくなった場合に、あるいはCDという媒体の状態が重要だと考えた場合にはそのままCDを保存している。ただし聞くのはもっぱら電子化したものである。以前は320KbpsでMP3にしていたが、CD同等音質ということで改めてWAVに変換しなおした。まあ320KのMP3とWAVの違いが自分の耳で識別できているかどうかは分からない。気分だけなのかもしれない。いまはダウンロードが流行っているが、基本、あれはMP3になってしまうので金払ってまで購入する気にはならない。それならば中古で50円とか300円くらいになっている中古CD、特にレンタル落ちを購入し、WAV化して売却処分してしまった方がいいと考えている。

これもやはり数千枚あったDVDについては便利なツールが色々とあるようだが…著作権の話がうるさくなってからはムニャムニャと話を濁すことにしている。自分で見るためならコピーしても問題ないだろうと思うのだが、ともかく映像研究がやりにくい世の中になったものだ。ちなみにミュージックビデオについては、以前はDVDを購入していたが、最近はYouTubeで高品質のものがでるようになったので、UniConverterなどという便利だけどちょっと高額な製品を使ってディスクに保存している。

というわけで、我が家の机の下には4TBや6TBのハードディスクがゴロゴロしている。クラッシュが怖いのでバックアップもとっているから、その数はかなりのものになる。これが「情報としての等価性」を維持した僕の情報管理術である。その基本は、自分の手元に情報をディスクの形で保存すること…である。

情報として扱えない物品

さきほど「衣類や食器、電気器具の類は処分したらそれっきりである」と書いたが、情報として扱えない物品の類についてはどうかという話に移ろう。

「存在すること」に意味があるもの

筆者は骨董収集を趣味にしている。日本はもちろん海外でも骨董屋ないし古道具屋を見つけるとヒョイと飛び込み、ざっとみまわし、値打ちのありそうなものと心の対話をする。もし魂がときめけば、それをためつすがめつしてから値段交渉に入る。値札の貼ってあるものについては多少の遠慮はするが、おおよそ店側の提示価格の2/3ぐらいから交渉にはいる。相手の抵抗の強さ、困った表情などを見ながら折り合い点を見つける。

こうやって集めたもののひとつは宇和島の骨董屋でみつけた仁王像、これは最初200万円と言われたけど、自分にとってあまりに高額なので粘りに粘って100万円で手をうった。これが拙宅にある一番高価な骨董である。ただ、そう書いておいても盗まれる心配はない。一人では足で押して少しずらす程度しかできない重さと仕舞ってある場所が部屋の奥の隅の隅であることがその理由だ。これはもう死ぬまで手放すつもりはない。誰の作かわからないし時代もわからないが、その彫りは実に見事で眼光も鋭く勢いがあり、力のこもった作品である。

こうした骨董品の類は、陶磁器、木彫り、鉄製品、人形、蛮刀、仮面、民族楽器、はく製や標本など多数ある。しかしながらそんなに値段の高いものはない。数千円からせいぜいが一点3万円程度の買値である。ただし海外で入手したものは、そのための旅費や滞在費を考えれば安いものではない。で、このような骨董だが必ずしも常に目の届く場所においてあるわけではない。つまり常に眺めながら楽しむというわけではない。そうではなく、手にしていることに意味があるモノたちなのである。あれがあり、あれもあり、これもあり、それもある…そうした保有意識だけで満足できるのだ。つまりまさに「存在すること」に意味のある人工物なのだ。まあ、たまには取り出して触り、眺め、それで満足することもあるけれど、ともかくその「存在」に意味があるのである。

同様の品物としては絵画がある。といっても油絵はひとつだけ、日本画は二つだけで、残りは版画である。印刷された絵画や版画には興味がない。画家のサインという生きていた人間の手の跡がついているものがいいのだ。こうした絵画の類は、残念ながら壁面の少ない、ようするに狭い家に住んでいるため、たいていは並べて床置きをしてあり、たまにいれかえをしたりする程度だ。床置きをしていたのでは見ることができないではないか、と思われるだろうがそのとおりである。これも骨董と同じで自分の手のうちに「存在すること」に意味があるものなのだ。

「存在すること」に意味がないもの

その他にもため込んでしまっているものは多いが、それらは「存在の意味」がないものたちだ。古い衣類がその典型である。なにせ20代のころのモノがいまだに存在している。もちろんこれは処分が面倒だから置いてあるもので、それこそ断捨離の対象になるものなのだが、数が多くなればなるほど面倒さも増してくる。

その他、パソコンから取り外したハードディスクやケーブルや基盤の類。これはもう使うこともないだろうから断捨離してもいいんだが、やはり面倒くさい。その他、もう書き上げるのも面倒になるほど多種多様なものがたまっている。情報化できるものならディスクに移してしまい、書籍やCD、DVDという媒体は処分することができたが、こうした雑多なものたちは「存在していることに意味がない」にもかかわらず、依然としてスペースを占有している。どうにかしてくれ、と我ながら叫びたくなることしばしである。

まとめ

このように、人工物には衣類や布団、家電製品など、物体としての価値があるものと、書籍やCD、DVDなどのように物体は単なる媒体(メディア)であってそこに載っている情報に価値のあるものとがある。前者は物体としての価値が損なわれると断捨離などにせざるを得ないが、後者の場合は、多少の汚れや傷があっても、情報を読み取ることができる状態なら、媒体から情報を抜き出して、媒体自体は断捨離してもかまわない、と筆者は考える。

もちろん情報は媒体なしに存在することはできないから、書籍やCD、DVDなどは、より高密度に情報を保存できる媒体に移行させる必要があり、物体が全くなくなるわけではない。しかし、一旦情報として取り出してしまえば、より小型軽量化できるし、複製は好きなだけできてバックアップは容易であるし、情報としての加工…主にパソコンをつかって…を行うこともできる。そしてそれは、最初のメディアに収納されていたときよりも自由度の高いものになる。ハードディスクなどの集積度が高まり、情報単価が安くなればなるほど、情報に価値のある人工物は使い勝手の良いものになる。ただ、もちろん削除機能を使って情報そのものをメディアから断捨離してしまえば、それはそれっきりである。

が、ともかくいかがだろう、読者諸氏も情報をハードディスクに高密度保存して古典的メディアをどんどん断捨離してしまう、というのは。