効率と選択肢

コミュニケーションが効率的になったというのは、ユーザビリティが向上した、ということになる。しかし、それで人々は十分に満足しているのだろうか。使って良かったなという気持ちになれる手段をユースフルであるとすれば、ユーザブルだけどユースフルではない状況のようにも思う。

  • 黒須教授
  • 2020年2月25日

効率は高いほどいいものだろうか

ユーザビリティは高ければ高いほどいいと思われている。そして、その下位概念である効果と効率も高いほどいいと思われている(ISO 9241-11の定義がそういう方向づけをしてしまったのかもしれないが)。しかし、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しい。効率ってものはどんな場合にも高ければいいものなのだろうか、と。特に、効率とゆとりとの関係を考えてみるといいだろう。

たとえばパリの見物をしたいと思ったとき、日本の空港からパリまでの飛行時間は短いほどいいだろう。特に金のない庶民にとって、あの狭いエコノミーの座席に縛り付けられる10時間近くは、どんなに「ごゆっくりおくつろぎください」とアナウンスされても、苦痛の時間でしかない。それが3時間になり、1時間になったとしたら、どんなにかありがたいことだろう。その意味では、フライトの効率化はどんどん進めてもらいたいものだ。

そして、その分、パリでの滞在時間がふえ、ゆとりをもってパリ見物ができる。効率とゆとりの間にはまずこうした関係がある。余計なものは効率化し、本来あるべきものにゆとりをもたらすこと、これは効率化を支持する一つの原則ではある。

しかし、フライト時間の効率化とともに、我々は「あるもの」を失ってもいる。それは日本からパリへのフライトの途中にある国々、都市、世界遺産、ビーチなどである。そうしたものは「飛行機からパラシュートで飛び降りさえすれば」訪れることも可能だろうに、現実にはそんな無茶は許されない。つまり、他のあらゆる選択肢を棄却して、パリという選択肢を選ぶという行動を我々はとっており、その範囲に限っての効率化、ということなのだ。

日本とパリの間にはものすごく沢山の観光地もあるだろう。しかし、それはヒューッと飛び越していくだけのものである。その結果として、たとえ10時間のフライトを我慢せざるを得ないとしても、それなりの時間をパリでゆったりすごすことが可能になるのだ。途中の場所を飛び越してしまうことは目標達成の効率化にともなう負の効用と考えることもできるだろう。

効率と選択肢

現在、我々は生活のいたるところで効率の水準が異なった複数の選択肢をもっている。たとえば、いま取り上げた移動についていえば、飛行機の他に、新幹線、在来線、自動車、バス、タクシー、自転車、徒歩という選択肢がある。前述の日本からパリへの移動を国内でいうなら、たとえば東京から京都への移動ということになろう。

その場合、たいていの人は新幹線を使うだろう。飛行機の場合と違って、窓の外の景色はいろいろと見ることができるけれど、線路は固定されているから、何回も往復しているうちに景色への興味は薄れ、早く着けばいいのに、という気持ちになるだろう。それでリニア新幹線あたりが期待されてもいる。ただし、トンネルばかりのリニア新幹線とは違って現在の新幹線では景色の季節感を感じることは可能である。でもそれ以上のこと、たとえば途中の地方都市の雰囲気、人々の生活感の一部や空気の匂いなどは感じることができない。

もし在来線を選べば、効率は低下するが、途中の駅での人々の乗り降りを見ることも、時には列車からちょっと外にでることも可能である。しかし、そこでゆったりと景色を眺める余裕はない。

自動車の場合を考えると、その運転は疲れるけれど、気に入った場所で車を停めて、そこの景色や雰囲気を楽しむことができる。ただ、停車ポイントごとのことになる。バスやタクシーもまあ似たようなものである。

自転車という選択肢は体力を要する。とにかく自分の脚力が頼りだから、東京から京都までというのは、よほど体力や時間に余裕のある限られた人たちに許された挑戦、ということになるだろう。途中でトラックなどに追い越されるときの安全性の問題もある。そして効率はめちゃくちゃ低い。しかし、何よりゆとりがあるし、それなりの楽しみもある。自動車以上に任意の場所での停止は可能だし、駐車スペースを考慮する必要性も低い。そして、場所ごとの空気を吸いながら、周囲の音を聞き、景色を好きなだけ楽しむことも可能である。

さらに昔のことを考えれば、人々は東海道を徒歩で旅行していたのだ。もちろん、それは景色を楽しむためではなく、他に選択肢がなかったからである。しかし、効率が低いかわりに、途中の宿場町での滞在を楽しむこともでき、京都までの距離の遠さを実感することで、京都に到着することのありがたみも現在の我々の数倍以上のものだっただろう。

現代に生きる我々には、こうしたすべての選択肢が提供されている。僕の友人は、定年退職後に東海道を徒歩でたどる旅をしていた。それもひとつの選択だろう。ビジネスに追われる人々は、効率のために新幹線を利用するしかないだろうが、時間に余裕がある人たちは、京都にゆくことだけを目的とせず、旅の途中を楽しむという選択肢をえらんではどうだろう。そこには効率と対立する効用次元としてゆとりを楽しむという次元があるからだ。新幹線でなく在来線の旅を試みることだって、新たな発見をもたらしてくれるかもしれない。

また、京都についてから、バスや地下鉄を利用するだけでなく、貸し自転車を利用するのもいいだろう。気に入った場所で撮影することもできるし、公共交通機関の入らない細い路地をめぐることもできる。

このように、多様な移動手段が用意されている現在は、効率さだけが唯一の価値観とはならない。ゆとりという価値観を重視すれば、それに適合した手段が利用できるのだ。

コミュニケーションの場合

「兄さん、佐伯の方はいったいどうなるんでしょう。先刻姉さんから聞いたら、今日手紙を出して下すったそうですが」、「ああ出した。二三日中に何とか云って来るだろう。その上でまたおれが行くともどうともしようよ」
(夏目漱石 門)

ここに描かれているのは明治時代の話である。手紙がコミュニケーションのベースになっている時代だから、こんな風にのんびりしていたのだろう。いや、当人たちは別段のんびりしているつもりはなかったろう。それが普通のスピードだったと思っていたことだろう。手紙をもらってから、どう返事をするかを考えたり誰かに相談したりしていたら、さらに返事は遅くなったことだろう。

西洋中世に至っては、そのスピードは更に遅く、有名なアベラール(1079-1142)とエロイーズ(1101-1164)の往復書簡は、第一書簡が1132年頃で、アベラールは53歳、エロイーズが31歳の時だった。それからアベラールが死ぬ1142年までのおよそ10年の間に、二人が交わした書簡の数は12通に過ぎない。当然、ひとつひとつの書簡は長いものになっているが、それでも離ればなれになった二人の心はつながっていた。きっと各々は相手から届いた書簡を熟読翫味(がんみ)していたことだろう。

この状況がインターネットの普及によって大きく変わったことは、周知のことである。メールは即日読まれることを暗黙の前提として送られるし、返事が2,3日も遅れれば「お返事が遅くなってすみません」という謝罪を述べることがマナーとなっている。もちろん、こういう状況のなかで、メール嫌いの人とかメールを読まない人というのはいるが、こうした人たちとの人間関係は必然的に薄れてしまう。

さらに現在ではラインの送受信は即刻行われることが前提とされていて、何時間たってもメッセージが既読として表示されないと、「無視された」と感情を害することもよく起きるようになってしまった。ラインの場合には、リアルタイムではないものの、準リアルタイム的な遠隔対話といってもいい。

もちろんテキストによるコミュニケーションだけでなく、電話や遠隔ミーティングなどの音声によるコミュニケーションが加わってくることによって、リアルタイムなコミュニケーションが身のまわりにあふれる状況になった。

効率とコミュニケーションの効用

さて、こうした状況で、我々の仕事は効率化されたといえるが、日常生活の方ではどうだろう。日常生活には、特に用件を伝えるわけではなく、緊急を要さないコミュニケーションもある。少なくとも昔はあった。何となく話をする、という形での心と心をつなぐコミュニケーションだ。現在では、あえてICTを使わずに、手紙という旧メディアを利用した絵手紙というやり方を使っている人たちもいるが、全体からみれば少数にすぎない。年賀状の利用者も減っている。

手っ取り早く会ってしまえばいいだろうということで飲もうじゃないかという場合でも、何時どこであうかについては予定調整サービスを利用したり、グループラインでササッと予定が決められてしまう。しかも当日になれば、遅くなった人にラインでどこにいるかという確認の質問が飛ぶ。何とも忙しい時代になってしまったものだ。

このような時代、メールやラインの文章を熟読翫味する人がどのくらいいるだろうか。その味も分からないまま、次々とメッセージをやりとりすることが普通になってしまった。そのことが分かっているから、メッセージの送り手も消耗品としての文章を次々に送り出すようになった。「てにをは」の間違った文章、カナ漢字の誤変換などが大手を振ってまかり通り、意味が伝わればいいじゃないかという前提でコミュニケーションが行われている。

このような状況は、コミュニケーションが効率的にはなったわけで、ユーザビリティの定義からすればユーザビリティが向上した、ということになる。しかし、それで人々は十分に満足しているのだろうか。コミュニケーションが高速になったものの、そのスピードに縛られてしまっている面はないだろうか。特定の手段を使って良かったなという気持ちになれる場合、その手段をユースフルであると仮に呼ぶことにすれば、ユーザブルだけどユースフルではない状況に置かれてしまっているようにも思う。

コミュニケーションが事務的な価値観に偏ってしまうのは、いささか味気ない。つまり効率一辺倒、スピード一辺倒になってしまうことは、本当に望ましいことなのか。そのあたりを我々は改めて考えてみる必要がありそうだ。

絵手紙派の人たちは、そうした傾向に対するひとつのアンチテーゼである。時間をかけたコミュニケーションにはそれなりのメリットもあるだろう。交通の場合とは異なり、コミュニケーションの場合には、なぜか全体的に効率重視の方向に世の中が動いてしまっているようだが、我々はその目的を見直して、多様な選択肢の利用を考えるようにしてもいいのではないだろうか。