なぜそんなに繋がろうとするのか(前編)

人はなぜ他人と繋がりたいのか。なぜコミュニケーションをせずにはいられないのか。SNSでのコミュニケーションの性質を考えてみよう。

  • 黒須教授
  • 2013年10月23日

サービスによって多少の消長はあるものの、SNSの発展は著しい。2013年3月時点でのフェイスブックの日本のユーザ数は1353万人だという。Twitterは2000万人を超えていて、mixiは2010年4月に2000万人を突破したが以後漸減、LINEは2012年11月時点で3500万人となっている。さらにmobageが2012年3月で3998万人、GREEが2900万人、Amebaが2011年12月で2000万人突破とされている。統計によって多少の変動はあるだろうし、登録会員の全てがアクティブユーザとは限らないが、その普及の盛んなことについておよその程度はこれで理解することができる。

ある個人がすべて異なるサービスを利用しているとしたら、これだけで既に日本人の全人口をオーバーしていることになるが、そうではないだろう。正確な統計データはないが、あれもやり、これもやっている、という人がかなりいる筈だ。多めにみて、日本人の3分の1から2分の1が何らかの形でSNSに登録し、あるいはそれを利用しているといえるのだろう。

さらにこの他にコメントをつけられる個人ブログという形態もあるし、YouTubeなどコメントを残せるサービスも多い。ようするに、何らかの形で人と人を結びつける仕掛けに満ちあふれているのがネットの現状だといえるだろう。

実は、今回のタイトルを「繋げようとするのか」にしようか「繋がろうとするのか」にしようかと、ちょっと迷った。しかしサービスが提供されても、それを利用する人々がいなければサービスは成立しない。結局、繋がろうという気持ちをもっている人が多いからサービスが成立しているのだと考えて、このタイトルにした。

さて、なぜ人々はこうしたサービスを利用するのだろう。そもそもこうしたサービスの無かった時代、人々はどうしていたのか。たとえば同好会やサークル活動など、趣味を同じくする人たちの集まりはあった。しかし、基本的に対面のコミュニケーションをベースにしていたので、そうしたコミュニティは地理的に近接するところにそれぞれ設立させ、全国的に見ると無数に近いほどのコミュニティが散在していたといっていい。それぞれの規模は、現在のSNSには遙かに及ばないが、人々の気持ちのなかに、他人と繋がりたいという欲求があることは確かだろう。

それではなぜ他人と繋がりたいのか。人は孤独に耐えられないのか。なぜコミュニケーションをせずにはいられないのか。もちろん、好んでつくるコミュニティだけでなく、社会生活は社会的な組織をベースにして構成されている。好むと好まざるとに係わらず。会社がその典型だし、学校もそうだし、八百屋や魚屋などの同業組合もそうである。人々はそうした場で気の合った仲間と酒を酌み交わし、話をしてきた。それが社会を構成する基本だった。しかし、社会というのはそうした必要性に駆られた集まりだけではない。いいかえれば、人間は仕事をして収入を得ていればそれだけで済むというものではない。何らかの形で他人とつながり、そこで情報を交換したり、共感しあったりすることを好む。何よりも他人と会うことが目的だったりもするだろう。これは心理学的には親和性欲求というものだ。そもそもそうした欲求があるから、人は集まってくる。それは確かだろう。

それでは、SNSでのコミュニケーションの性質を考えてみよう。僕は、それが本当にコミュニケーションといえるものになっているか、というか健全な双方向コミュニケーションになっているのかということが気になっている。まず、コミュニケーションには送り手と受け手の役割があるが、SNSでのコミュニケーションでは、送り手となる人と受け手になっている人とがかなり分離しているように思える。受け手となっている人は、いろいろな人の書き込みを読むが、それだけのことも多い。mixiには足あと機能があったので、そうした閲覧オンリーの受け手が来たことを知ることもできたが、FBにはそれがない。だから、コメントを残す人については確認ができるものの、閲覧オンリーの受け手について、送り手はその存在を知ることが出来ない。僕にとってはまずこれがあまり気持ちのいいものではなかった。まあ新聞雑誌やテレビなど、受け手を特定できないマスメディアも多いことだし、こうした形での一方向的なコミュニケーションがあることは認めざるを得ないが、マスメディアよりは幾分かそれ以上にパーソナルなコミュニケーションの場がそうした形になっていることがちょっと気になっていた(以下続く)。

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