SNSにおけるシェアリング-それは適切なUXをもたらしているか

不特定多数への拡散目的で情報をSNSでシェアして、人に見られるのが楽しければそれでいいだろう。しかし「いいね」やfollowerを気にしだすと、その圧力に押され動かされることになるのではないか。それはSNSのUXとして適切だろうか。

栗城史多さんの死

2018年5月に、エベレスト登頂を目指していた登山家の栗城史多(くりき のぶかず)さんが亡くなった。そのことは既にマスメディアでも報道されたからご存じの方も多いだろう(たとえば「登山家・栗城史多さんを『無謀な死』に追い込んだ、取り巻きの罪」2019.2.22確認)。

このコラムで、この事故をとりあげるのは、2012年のエベレスト挑戦における凍傷のため指9本を第二関節から失った身でありながら、彼が困難な南西壁ルートからの単独登頂を、しかも無酸素で目指していたということ(詳細はリンク元を参照していただきたい)についてではない。むしろ、それほどの困難な状況のなかで、彼を登頂に駆り立てたものについて考えたいからだ。

記事では、大手芸能事務所などの「取り巻き」が、彼をもちあげ、いや追い込んで、結果として死に至らしめたという論調になっているが、そうした経済的支援に関係しない面でも、彼を追い込んでしまった原因は他にあったように思われる。別のサイトに書かれているが、栗城さんは2009年から登山の様子をインターネットで生中継するようになったそうだ。そこには「2009年にダウラギリや2014年にブロードピークの頂上にたどり着いた時など、視聴者と『冒険の共有』をすることにこだわり続けていた。」と書かれている。このあたりが気になって仕方がないのだ(「亡くなる直前までSNSに配信。登山家・栗城史多さんがこだわった『冒険の共有』」2019.2.22 確認)。

僕は栗城さんのことも、事件のことも知らずにいた人間で、テレビ番組で初めて事の次第を知ったのだけど、それからネットを検索してみて、前記の引用文にある「冒険の共有」という部分に引っ掛かるものがあった。SNSにおけるシェアは、単に複数の人が同一の情報を受容するだけのことではない。それなら従来からあるマスメディアが行ってきたことと似たことだ。ここでSNSがマスメディアと違うのは、情報の送信者が特定のメディア企業ではなく多数の一般人であること、情報の受容者が送信者からの情報を孤立した状態で受容するのでなく、受容者が送信者ともシェアという形で相互に「つながる」ことができる点にある(図1)。

図
図1 マスメディア(左)とソーシャルメディア(右)

これはネットの世界でWeb2.0ということが言われるようになってからの著しい変化であり、情報発信が一部の人間に限られていた状態からの解放と考えることもできるのだが、それが時に社会的圧力という形をとってしまう点が僕にとっては不愉快な感覚をもたらす言葉なのである。

僕が不愉快な印象をうけ、ついにはFacebookを凍結するに至ってしまったのは、シェアの証(あかし)としてつかわれている「いいね」(like)ボタンによる双方向性なのだ。Facebookだけでなく、InstagramとかTwitterなどにもそのボタンがある。この「いいね」ボタンが、そしてその押された回数、つまりはシェアしてくれた人たちの人数、そしてフォロワーという関係性づくり、これらがSNSの恐ろしい魔力なのだと思う。

深く考えずにSNSを使っていれば、「いいね」ボタンやフォロワー数は人と人のつながりを示すもので、コメントを受け取るのと併せてポジティブなUXをもたらすものと思えるだろう。しかし、一旦、その数を気にしだしたりすると、もう魔力に侵されてしまう。僕がFacebookを凍結してしまったのも、その魔力がうざったくなったからだ。気にしないようにすればいいだけかもしれないが、正直、やはり気にはなってしまうのだ。

個人的状況

先に書いたように僕は最近Facebookを凍結したのだけど、正確には、ほぼ毎日のように行っていた書き込みを止めた、ということである。実は僕の書き込みはほとんどが日記替わりのものだった。特に他人に聞いてほしいという気持ちはあまり強くなく、反対にレスされると「あれあれ面倒だな」と思ったりするほどだった。凍結した現在になって思うのは、やはり日記は誰にも読まれない場所に書くべきだったなという、ごく常識的な結論だった。

もうひとつ、凍結しようと思った理由は、750人ほどいる「友人」のうち、書き込みをしている人がせいぜい40人程度しかいないことだった。彼らの一部は一日何回も書き込みをしていて、その入れ込みようがすごいなあと思っていたが、書き込みをしない残りの「友人」たちはROM(Read Only Member)であり、果たして「友人」というにふさわしい人なのかどうかが分からなくなってきたのだ。

ほんとうに友人というのは何なんだろう。誕生日とか退職記念とか、何かめでたい事でもあると100人近くの「いいね」が付くこともあるが、ということは2,3人しか「いいね」が付かない書き込みについても、おそらくその100人近くの人は見ているのだろう。そして彼らは何も反応しない。読んだだけでスーッと消えてしまう。すべての書き込みに100人もの「いいね」が付くのも気持ち悪いが、素通りされるのも気持ちのいいものではない。それって「覗き」行為に近いんじゃないだろうか…などと覗かれることを前提にして書き込みをしていて言えたものではないのだが。

ともかく不特定多数の人に見られ、読まれることが楽しければやっていけばいいだろう。情報を不特定多数に拡散することが目的だったらそれでいい。僕はトランプ大統領のTwitterアカウントをfollowしているが、彼のように拡散を目的にして言いたい放題を言っている人たちには最適なメディアだろう。しかし「いいね」やfollowerを気にしだすと…栗城さんのようにその圧力に押され動かされてしまうことになるんじゃないだろうか。これってSNSのUXとして適切なものといえるだろうか。いや、SNSを含めた社会生活全般において健全なものといえるのだろうか。

戦時中の日本に「露営の歌」というのがあった。「勝ってくるぞと勇ましく、誓って故郷を出たからは、手柄立てずに死なりょうか。進軍ラッパ聞くたびに、瞼に浮かぶ旗の波」という歌詞の歌である。この旗の波というのもSNSの「いいね」のように、心理的圧力を加える社会的要因だといえる。自分のアイデンティティを、自らの考えや信念によって立たせるのでなく、「いいね」ボタンや旗の波のような他人からの心理的圧力によって構築し、自らを動かしてしまうことが本当に人生として幸せなものなのかどうか。社会生活というものは、こうした圧力によって動かされてしまって良いものなのかどうか。疑問である。

特に「いいね」ボタンは、旗の波のように地域社会に限定されたものでなく、全国、全世界からやってくる。その心理的な力の大きさは旗の波の比ではない。栗城さんを死においやったものも、そうした世間からの心理的圧力だったといえるのではないか。

特定の相手とのコミュニケーション

対人コミュニケーションの基本は特定の相手とのものだと思っている。もちろん論文を書いたり、こうしたコラムを書いたり、書籍を出版したりする活動は不特定の人々を相手にしているが、そうした場合にはそれなりの「覚悟」ないし「気構え」というものがある。

SNSがUX的に不適切な点は、不特定多数の相手に向けたものでありながら、ともするとパーソナルメディアのように思わせてしまうことである。最近の「馬鹿バイト」の映像も同様な誤解から生まれたものだろう。身近な友人や知人を相手にしたつもりで、特に構えることなしに、気楽になんでもかんでも世界に向けて発信してしまっているという点だ。

SNSは気構えなしに使うべきではないのだ。しかし、運営側はその楽しさを謳い、どんどん書き込んでね、と言う。つい、それに乗せられて書き込んでしまうと面倒なことになる。もちろんユーザサイドの自覚の問題が基本ではあるが、そうした誤解を暗に奨励している運営側にも責任はある。ともかく、「いいね」カウントは人々に誤解をもたらし、人々を妙な方向に動かしてしまうこともあるのだ。

改めてシェアについて

改めてシェアということについて考えたい。Facebookを例にとると、そこにもいろいろな使い方があり、以前は、「羽田空港なう」とか他人にとってはどうでもいい自分の存在情報を載せる人がいたり、特にInstagramが盛んになる前は、やたらと食事の写真を掲載する人も多かった。そんなことをシェアしてどうするんだ、と思っていたが、結構多くの人たちがやっていたように思う。何が何でも他人とつながっていたい人や、自分の存在を他人に認めてもらいたい人が、そんなに沢山いるのだろうか。まあ、そうした人たちはそれでもいいだろう。ただ、先に述べたような誤解をせず、気構えをもち、全国、全世界を意識して使っていくべきだろう。

ところで、Facebookの利用者は、集計サイトによると、まだ数が増えているようだ。ただ、注意すべきは、それが全国、全世界の人口にまでは至っていないという点だ。全国、あるいは全世界を相手にしているつもりであっても、それは限られた多数であるにすぎないということだ。そして「いいね」を付けたりコメントを付けたりする人は、その中にさらに少数でしかないのだ。

要するにSNSのもたらす誤解は二種類あって、ひとつは身近な人だけを相手にしていると誤解してしまうケース、もうひとつは全世界の人を相手にしていると誤解してしまうケースなのだ。後者について追記するなら、要するに現在のSNSは、いくら利用者数が増えたとはいえ、それは「関心をもっている人」に限定されており、世の中にはSNSなんか関係ない、というスタンスで生活している人たちも大勢いる、ということが忘れられがちだということだ。どこかの地域の人々が、1,2,3,4,5,6,7,8,9,10、あとは沢山、という数カテゴリーを持っているという冗談なのか本当なのか分からない話を聞いたことがあるが、SNSの場合の「沢山」は「すべて」とは違うということを認識しておくべきなのだ。

ダンパー数という話がある。人が安定した社会的関係を築けるのは認知的能力の限界から150人程度といわれている。大雑把な話ではあるのだが、7±2とか4±1で有名になったマジックナンバーと似たり寄ったりで、経験値としては当たらずといえど遠からず、というものかもしれない。素直にそれを受け取れば、Facebookの友人が1000人を超したといって喜んでいる人は、認識限界を超えた人々を相手にしているということを自覚した方がいいだろう、ということになる。まあ、御当人もそのつもりで、「友人」の中には、誰だったっけというような人が含まれているかもしれないと自覚しているかもしれない。しかし、そうした人々と何かをシェアするということは、どういう意味を持つのだろう。

改めて、Facebookの使い方を大別してみると

  1. 閲覧者を意識している
    1. 閲覧者に褒めてもらいたい(共有してほしい)-承認欲求、自己顕示欲求
      1. 自分が何かをやり遂げた
      2. 自分が賞をもらった
      3. 綺麗な写真、面白い動画を見つけた
    2. 閲覧者を行動に巻き込みたい-連帯欲求
      1. デモの予告
      2. コンサートなどのイベント予告
    3. 閲覧者に意見(特に政治的)を伝えたい-自我拡散欲求
      1. 政治家に対する批判
      2. 行政や企業に対する批判
      3. メディア批判
      4. 他国の批判
    4. 閲覧者(というか誰か他人に)知らせたい-報知欲求、自尊欲求
      1. 自分が誰それの有名人に会った
      2. 自分がコンサートにでかけた報告
      3. いまこんな(Happyな)暮らしをしてます報告
      4. 赤ん坊が生まれたなど子供に関する報告
      5. 結婚した報告
      6. 誰かが亡くなった報告
      7. こんな趣味をしているという知らせ
  2. 閲覧者を意識していない
    1. 日記の替わりに使う

といったところだろう。1の閲覧者を意識している場合は、投稿者は投稿する際に、閲覧者の存在を意識している。そして閲覧者からの「いいね」やコメントを期待している。このやりとりの流れはシェアという概念で括ることができる。投稿者は投稿したものが、閲覧されなければ情報がシェアされたことにならず、その証拠としての「いいね」やコメントを期待することになる。このケースでの課題は、繰り返しになるが、情報がシェアされる範囲を常に意識しておくことだ。それを忘れなければSNSは適切なUXを提供することになる。いいかえれば、SNSのUXは、運営側だけでなく利用側の自覚があってこそ適切に成立するものなのだ。

反対に、2の意識していない場合、これはまず意識していない自分に気づき、SNSの利用を止めた方がいいだろう。思わない形で拡散し、余計な人々にシェアされて、いらぬ副作用を生むことがあるからだ。最初のうちは書きたい欲求を抑えるのが難しいかもしれない。それだったら日記アプリなんかを使って別のところに書いておけばいい。そして1,2ケ月もすると、あれ、あのころって何か病気だったのかなあ、などといった気持ちになるものだ。これで2のタイプの人たちはSNS卒業である。僕のように。

公開: 2019年4月9日
著者: 黒須教授