目標の存在と満足感-高齢者マーケットへの取組み方

人が満足感を得るには達成すべき目標が必要である。高齢者には、彼らに相応しいレベルの重要度と難度を持ち、適切な自我関与の度合いを持った目標を与えてやり、その達成に必要な製品やサービスを提供することで、生き甲斐につながる満足感を与えられるのではないか、と思う。

満足感を得るには目標が必要

僕は経験工学の枠組みを考えるなかで、満足感を経験の総合的な評価指標として位置づけて、目標達成のために人工物を利用したときの満足感を人工物の客観的品質特性と主観的品質特性と意味性とから構成されるものと規定した。まあそのあたりまでは、そこそこの理屈を構築できたかなと考えている。

しかし、それだけでは、日常的な人間の精神状態を適切に表現しているとは言えないと思った。人々は、常に満足した状態にいるわけではない。むしろその反対かもしれない。さらにいえば、満足した状態に到達したいと思っても、そのための手がかりを失っていることもあるのではないか、さらにいえば、満足も不満足もなく、何もないという状態すらあるのではないか。

ある程度の長さを持つ人生において、満足感を喪失した、あるいは喪失しかけてしまう可能性の高い状態とは、高齢になった状態、特にリタイアした状態だと思う。それまでの年齢では、幼児期から少年期、青年期、成人期、壮年期とたどるにつれ、それなりに世の中や他人との接点があり、それなりの役割を期待され、それなりの目標ができ、それを達成しようと努力することで時間を過ごしてくる。しかしリタイアした状態では、そもそもの目標が明確ではない。下手をすると目標を喪失してしまうことになる。

もちろん、日常生活で腹が空いたから食事を取るとか、排尿のためにトイレに行くといった行動はしているだろう。それも目標達成行動ではある。しかし慣れ親しんだ環境でのそうした日常行動は、特に不都合なく行えるものであり、したがって達成しても満足感は極めて低い。

そこでリタイアした人たちは目標づくりに励むことになる。満足感を感じるために。何かとても作為的な感じもするのだが、ポジティブな気持ちでいるためには目標が必要で、だからまずは目標づりをしなければいけない、という理屈だ。ともかくも生きながらえてゆくために、ということもできるだろう。そうしたロジックがリタイアした人々に共通しているようにも思う。

FacebookのROMになってしばらく経つが、時々のぞいてみると、リタイアした人たちがあちこちから色々な情報を拾ってきてはそれを紹介する、という行動パターンを取っているのをしばしば目にする。こうした人々の場合、どのような情報をリンクして持ってくるかに自分らしさが表現され、ちょっとしたコメントを付けることで更に自分らしさが表現できる、ということなのだと思う。さらに他人からコメントが付けば、それによって社会的なつながりができる。多分、彼らからFBを取り上げてしまったら、生き甲斐といってもいいが、満足感のある生活が損なわれることになるのではないかと思う。

自分自身、何か仕事をしなければならないときは、それを達成しようとする目標意識があり、その結果としてそれなりの満足感を得ているが、やることがなくなった状態を想像するとある種の怖さを感じる。それこそ、何のために生きているのかが分からなくなりそうで、そのこと自体が恐くなる。

目標と満足感のロジック

そうしたあたりを考えてみると、人には達成すべき目標が必要であり、その目標が自分にどの程度関与しているか(Gr: goal relevance)ということや、その目標の重要性(Gi: goal importance)、そして目標達成の困難さ(Gd: goal difficulty)の積によって、目標の大きさが規定され、その大きさが達成時の満足度(S)の大きさに比例する、というようなロジックが考えられる。また、目標は複数あり得るので、その総和となるとも考えられる。したがって、個々の目標の達成度をAとすると、

S ∝ ΣA(Gr*Gi*Gd)

というような形になるかと思われた。Grについては、自分でなければ出来ないときは1.0、誰でもいいときには0.0に近くなり、Giについては、重要であるかどうかで、1.0から0.0の値をとる。さらにAも1.0から0.0の値をとる、とする。

ラフな値だが、企業で働いているような場合には、Grは1.0から0.5程度、Giは1.0から0.8程度、Gdは1.0から0.5程度であり、GrとGiとGdの積は1.0から0.2になるだろう。ところがリタイアすると、そもそもΣを取るための目標の個数が減少するし、それぞれについては、Grも低ければGiもGdも低くなり、下手をするとその積は0.0001程度になってしまうかもしれない。

高齢者マーケットへの取組み方

よく高齢者マーケットと言われているが、彼らは食事を与えられ、介護や庇護を与えられていれば満足するわけではないと思う。自転車で散歩させたりゲートボールをやらせていればいいわけでもない。もちろん彼らの体力や知力に適合させることは必要だが、ともかくも彼らに相応しいレベルの重要度と難度を持ち、適切な自我関与の度合いを持った目標を与えてやることが必要ではないかと思う。(そもそも「与える」という姿勢がいけないのかもしれないが)。そうした目標をまず与え、次いで、その達成に必要な人工物、つまり製品やサービスを提供することで、生き甲斐につながる満足感を与えられるのではないか、と思う。

さらにいえば、あてがいぶちの目標ではなく、できるだけ自発的に見出したかのように思える目標機会を与えることも必要だろう。これまでご苦労様でした、これからはどうぞご自由にお好きなことを、と投げ出したかのように言うだけではまるで駄目だし、さあ登山に行きましょう、写真を撮りましょう、と言って活動に誘いをかけるだけでも十分ではないだろう。客観的品質特性や主観的品質特性、そして特に意味性の高い人工物を使ってはじめて達成できるような目標を持ってもらうことが必要だろう。適切な目標機会を提供されれば、高齢者、特にリタイアした人たちも、積極的に目標達成のために人工物を利用することになり、望ましい高齢者マーケットの活性化に繋がって行くのではないかと思う。

公開:2014年5月28日
著者:黒須教授

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