高齢ユーザへの接し方

僕は、ラガードとなった高齢者の人達をICTの渦に巻き込むのは積極的にやるべきではないと思う。ICT利用でネガティブな経験をさせてしまうより、人的サービスを提供したり、従来のやり方で対応できるようにしてあげる方がよほど人間中心的ではないだろうか。

ベクトルとしての人生と硬化傾向

僕は、人が生まれてから幼児期、青少年の時期、成人した時期、壮年期、そして老年期へと経ていく過程は、多次元空間におけるベクトルの伸長のようなものだと思っている。

その原点は、遺伝子によって多少位置が異なっていて個人差はあるものの、まだ多くの部分はポテンシャルとしてのものであり、形質をなしているものについては、お互いおおよそ近いところにある。
成長するにしたがって、そのポテンシャルが外化されて形質化し、さらに教育やしつけ、友人関係、メディアなどの影響が個人個人によって異なるため、徐々に異なる方向に伸びてゆく。ただ、まだ相互のベクトルの頂点は、それほど大きく離れていないため、外部から手をさしのべることによって、修正も可能である。
しかし、年を経てベクトルが長くなるにつれて、頂点の間の距離は大きく開いてゆき、高齢者になると、もう個人差は大きくなりすぎて修復するどころではなくなる。

まあ、そんな考え方だ。要するに、高齢者の間の個人差というものは、想像以上に大きいだろうということだ。

さらに、幼少期にはまだ柔軟であった心も、成長にともなって自我がめざめ、さらには自信を持つようになり、自信を持つことによって外部からの力による修正が困難となる。おおよそ20代後半から30代前半がその端境期で、それ以後は皆、自分のやり方、自分の考え方というものを持つようになるように思う。

それが極端になったのが高齢者で、高齢者が頑固だというのもそうしたプロセスの結果だし、自分のやり方でこれまで生きてきたのだという自信は、裏返せば自分のやり方への固執傾向につながる。だから高齢者の生活習慣を変えようとすることは困難である。

高齢者と新技術

高齢者を考えるとき、まずベースになるのは過去経験の蓄積としての知識やスキルがどの程度の水準にあるかということだ。次に、新しいことがらを自分の生活領域に取り込もうとするモチベーションがどの程度の水準あるのかが問題となる。

現在の高齢者、特に後期高齢者コホートを考えたときには、特にICTに関してはそもそもの知識やスキルが高くはない人が多いし、新しいことに取り組んだり学んでいこうというモチベーションも低い。個人差はあるにせよ、概してそうした傾向が見て取れる。後期高齢者になって社会人教育を受講しようというような人は、僕の勤めている放送大学には結構おられるが、社会全体から見れば少ないと言わざるを得ないだろう。

僕はラガードではないけれど、ラガードとなった高齢者の人達の気持ちは分からないではない。何だか分からないものが世の中には沢山でてくるが、自分たちの生活は自分たちのこれまでのやり方でやってこられたし、先の短い将来についてもそのやり方でやっていけばいいと思っているのだろう。

人間的な対応のあり方

結論めいたことを書いてしまうと、僕は、そうしたラガードの人達をICTの渦に巻き込むのは積極的にやるべきことではないように思っている。高齢者に無理やりICTを学習させても、教わったことをすぐに忘れてしまうし、間違えることも多いし、どうすればいいのか不安さえ感じてしまうだろう。ようするにネガティブなUXとなってしまう可能性が高い。

社会全体が大きくICTの方向に動いているために、彼らとしても自動券売機やATM、SUICAなどをつかった方がいい場面、利用しなければならない場面に遭遇することはあるだろう。しかし、そこで苦労させ、ネガティブな経験をさせてしまうより、係員による人的サービスを提供したり、従来と同じやり方で対応できるようにしてあげる方がよほど人間中心的ではないだろうか。

どうせ、という言い方は良くないが、あと10年、20年、30年もすれば、世代は進み、現在の高齢者世代は世の中から徐々に消えてゆく。人的サービスはそれまで続ければいい。というか、それまでは人的サービスを無くしてしまわないことが人間中心的な取り組み姿勢だと思う。

ICTによる自動機は、ユーザのための効率化という側面もあるが、企業のための省力化という側面もある。しかし、少なくとも現在の高齢者が生き続けている限り、サービスにおける冗長性は人間中心性、ユーザ中心性という観点から維持されるべきものだと思う。

公開:2016年7月21日
著者:黒須教授

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