ユーザとしての後期高齢者

高齢者マーケットが前期高齢者を中心にしたものであっても、高齢者ユーザには後期高齢者も含まれる。今回は、知人とその88才の母親がネットバンキングの申請をした事例を紹介しよう。その申請に際して、その銀行は実に実に面倒な手続きを要求したのだそうだ。

  • 黒須教授
  • 2015年11月27日

マーケットとしての高齢者

高齢者マーケットが注目されるようになって久しい。ただし「優良」マーケットになるのは主に65-74才までの前期高齢者だろう。75才以上の後期高齢者は、マーケットというよりは医療制度や介護制度の対象者としての側面が強くなるように思う。

2013年に高年齢者雇用安定法が改正されてから、高齢者を巡る状況は変化した。厚労省の高年齢者雇用安定法の改正に関するサイトによると、

少子高齢化が急速に進展し、若者、女性、高齢者、障害者など働くことができる人全ての就労促進を図り、社会を支える全員参加型社会の実現が求められている中、高齢者の就労促進の一環として、継続雇用制度の対象となる高年齢者につき事業主が定める基準に関する規定を削除し、高年齢者の雇用確保措置を充実させる等の所要の改正を行う。

と書かれている。その背景としては、60才定年以降、雇用が継続されないと、公的年金(厚生年金)の支給開始年齢の引き上げにより、給与も支給されず年金も支給されないことにより無収入となる者が生じる可能性がでてくる、という事情が関係している(高年齢者雇用安定法の改正~「継続雇用制度」の対象者を労使協定で限定できる仕組みの廃止~ – 厚生労働省)。

この措置により、働く高齢者の姿が多く見られるようになった。働ける状況にあり、働く意欲と能力を持っている高齢者が労働し、対価を得るようになるのは基本的には好ましいといえるが、その背景に年金制度の破綻が見え隠れするという状況は、必ずしも諸手を挙げて賛同すべき状況ともいいがたい。

ともかく働く前期高齢者に関しては、それなりの収入、すなわち購買力があることにはなる。したがって、高齢者マーケットという考え方は、依然として通用するものと考えてもいいだろう。しかし後期高齢者となると、一般的には、働く場を無くし年金に頼る生活が主体になるだろうから、マーケットとしての性格は前期高齢者より弱くなるといえる。

ユーザとしての高齢者

高齢者をユーザとして見た場合、前期高齢者には、高齢者特有の課題、たとえば老眼による視力の衰えや聴力低下などの感覚機能の低下や、短期記憶力や注意力など認知的機能の低下、反応時間の遅れや動作の緩慢さなどの運動機能の低下などがでてくるが、企業や自治体などの機器やサービスの提供側もそれらに対する配慮をそれなりに行っており、まあまあ、と言える状況にはなってきた。

しかし、後期高齢者のことを忘れてはいけないし、前期高齢者でも認知症等を発症する人々がいることも忘れてはいけない。さらにそうした人々がすべて24時間介護されている状況にあるわけではないことも重要である。

事例:超高齢者に代わってインターネットバンキングを申し込む

ここで知人の母親である高齢者の事例を紹介しよう。その女性は現在88才であり、まあバリバリの後期高齢者なのだと言う。バリバリと書いたのは、老眼も進行し、胃がんや白内障やくも膜下出血などの手術も行ったことがあるし、かなりの難聴にはなっているものの、意識は極めて明瞭だし、杖を使いながらシャンとした姿勢で歩いてもいるというからだ。ただ、ICT製品の利用に関してはきわめて消極的で、また、これは性格の問題だろうが他人を疑ったり批判したりすることをしない傾向があるという。

その性格が災いしてか、一年半前には、キャッシュカード詐欺にあってかなりの金額を盗まれてしまったそうだ。ある程度の金額は銀行から戻されてきたものの、それ以来、今後のことを考えて、キャッシュカードは廃止し、通帳や印鑑などは息子である彼の貸金庫に保管するようにした。ただ、不意の出費などがある時にいちいち貸金庫まで行くのも面倒だという考えから、彼はネットバンキングを申請することにした。要するに後期高齢者である母親が直接ユーザになるわけではなく、その代理人としての息子がユーザとなる予定だった。

しかし、メインバンクである銀行は、その申請に際して実に実に面倒な手続きを要求したのだそうだ。挙げ句、申請が終わってパソコンから利用を開始しようとした時に、4桁のパスワードが分からなくなってしまい、改めて銀行に電話をしたら、銀行からは「ご本人からお電話をいただかないと」といわれたという。それはまあ仕方ないだろうとは思ったそうだが、その手続きのなかで、何かというと「ご本人に」話をさせられ、さらに「ご住所を○○町とおっしゃいましたが、都道府県からおっしゃっていただけますか」と言葉は慇懃だが、七面倒くさいことを言われたのだそうだ。彼が代わりに答えたようとすると「いえ、ご本人に」という。あくまでも母親の声を要求してきたのだ。

登録番号とパスワードを入力する

極めつけは、登録番号の入力と新しい4桁のパスワードの入力の時だった、という。銀行の担当者も聞いてはいけないことになっているらしく、それを入力する時には合成音声でメッセージが流れ、背景ノイズとなる音も鳴っていたそうだ。後期高齢者の母親は、送られてきたカードの裏面にある10桁の登録番号を電話のプッシュボタンから入力することもできなくて、息子に助けを求めた。後期高齢者にはこんなこともできない人がいるのだ、ということが理解されていなかったのだ。また、新しいパスワードの入力では、「何をすればいいの」と訳が分からないという顔をしていたという。多分パスワードという概念がなかったのだろう。

さらに、「カードの裏面にある10行10列の数表の何行何列目から右に四つの数字を入力してください」というメッセージは完全に理解の範囲を超えていたように見えたそうだ。たしかに行列という概念もなく、行も列もわからない。しかも細かい数字で印刷してあるから良く読めない。そういうユーザに対してあまりに機械的な応対ではないかと彼は腹がたったという。まあ理解出来る反応だ。結局、メッセージはスピーカで聞くことにして、全部彼が代行したが、そうやって代行できてしまうようなことなら、形式的に母親本人にやらせるのでなく、柔軟な対応をしてくれてもいいだろうに、と怒っていた。そもそも母親が脇にいることは分かっているはずなのだし。

これは特殊なケースか

多分、銀行側は、そんな後期高齢者がインターネットバンキングをやることは想定していなかったのだろう。ただ、利用状況として、その子どもが代行することは、レアなことかもしれないが、彼の家だけの特殊なケースともいえないだろう。しかし、利用状況の想定の範囲を超えていたことをやろうとした知人の方が間違っていた、とは思いたくない。銀行という企業の活動は、すべての人を対象にしたものである筈だ。幼児を除いて「すべての人」である。だから、あらゆる可能性を想定すべきなのではないだろうか。

まとめとして

高齢者マーケットが前期高齢者を中心にしたものであっても、高齢者ユーザには後期高齢者も含まれる。そのことを忘れてマーケティングに走ってしまう企業が多いように思われる。企業は、マーケット中心設計ではなく、あくまでもユーザ中心設計を目指すべきだろう。そして思う。「当行は、後期高齢者の預金者の方にでも使えるインターネットバンキングを行っております」というような広告が出てくる日のことを。