製品開発の適否の判断(1) 適切な判断を欠いた開発

製品開発の歴史をたどると、成功した製品もあるが、廃れてしまったものもたくさんある。その製品や技術の先の姿を適切に予測するための秘訣を外化することはできないだろうか。

意味性に照らした「予言」

以前、3Dテレビについて、人間の知覚メカニズムの性質に反していると指摘したことがある。つまり、3D映像では両眼視差という立体視の手がかりを使っていても、輻輳や眼球調節という生理的な立体視の手がかりでは平面にしか見えていない。だから一方の手がかりでは奥行き感があっても、他方の手がかりでは平面にしか見えていない、という手がかり間の矛盾によって視覚系が混乱している可能性があり、そのために疲れやすいということがあると思ったのだ。そのほかにも、家庭内で家族が3Dテレビを見るためだけの目的で眼鏡をかけるという状況の異常性(3D映画を上映している映画館で観客側を見てみるといい。実に奇妙な光景である)、ソファに寝っ転がって横になったら3Dには見えなくなる(両眼視差の手がかりは左右方向に埋め込まれているからである)等々の理由から、とても普及するとは思えない、と「予言」した。マスメディアやネットが3Dに浮かれていた時代だったから、無視されちゃうんだろうな、とは思っていたが、現在になってみると、その予言があたっていたことが「証明」されている。

いまではタブレットは市場に一巡したので売れ行きカーブも鈍化しているようだけど、タブレットの市場への浸透が著しかった頃、もうパソコン(特にノートパソコン)はなくなって皆タブレットに代わってしまうのではないか、というような心配性の意見が結構見受けられた。これに対しても、文書作成などの能動的活動におけるパソコン(基本的にはデスクトップのことになるが、ノートパソコンについてもいえるはず)の地位は変わらず、むしろ、これまでパソコンをブラウジングという受動的活動に用いていた利用の部分がタブレットに代わっただけであり、じきに均衡点に到達するだろう、という「予言」をした。これもあたったようである。

さかのぼれば、カナ漢字変換が登場した昔、この便利な機能を使うことで我々は漢字を書けないようになるだろうと「予言」したこともある。この予言もあたった。

別に僕が予言者であると言っているわけではない。ただ、自然に素直な見方をすれば、つまり、最近僕が使っている言葉で言えば意味性に照らしてみれば、新たに登場した技術やそれを使った製品がどのようになるかについては、結構まともな将来予測ができるのではないか、と考えている。

将来予測できないのは、人間の本性を見据えていないから

過去の製品開発の歴史をたどってみると、そこには成功し改良を経て現在に至っているものもあるが、反面、廃れてしまった製品、顧みられなくなった製品の屍体が累々と転がっている。その開発のために、どれほどの設備投資が行われ、どれほどの工数が掛けられたのかを考えると、その屍体の山を見るたびに人間の知の限界と業の深さを思い知らされる。

別に宗教的な話をしようというわけではない。ここでのポイントは、技術開発の歴史がこうした経緯を辿るのであれば、なぜその先の姿を予測できなかったのか、なぜ無駄な投資をしてまでも、なぜ屍体の山を築いてまでも、企業は(いやここは特に企業経営者や技術者、研究者などを含めて、人は、と言ったほうがいいだろう)真摯に素直にものごとのあり方を省みるという姿勢を持てなかったのだろう、という問いかけにある。いいかえれば、将来を予見することができるなら、無駄な投資を行わずに有効な方向に投資を集中して、大きな損失を出さずに利益を得ることができるはずなのに、という「愚痴」である。

問題は、人間や仕事の本性をきちんと見据えていないところにあるんじゃないか、人間の心や社会についての無知が甚だしいからなのではないか、と思うのである。馬車馬のように、前方しか見えないようになってしまった人たちは、その技術開発が将来普及している夢の姿にうつつを抜かす。視野の狭い人間は、「~だったらどうなの」「~ということは考えられないの」「~のような場合についてはどうなんでしょう」という問いかけを封殺してしまい、一直線に走り出す。

こうした視野の狭さは、企業経営者や技術者や研究者だけに見られるものではなく、政治家だって同じようなものだから、もう人間一般の業と考えた方がいいのかもしれない。しかし、それではいい筈がない。技術開発では無駄な損失を生むことになるし、政治の世界では兵士や民間人の苦しみや悲しみを生むことになるからだ。「考える人間」の社会的責任として、そうした人間の無知さかげんには対抗しなければならない。残念ながら日本人の大多数が読んでくれているわけではないこのブログにも、相応の責任はある。

人間の基本的性向から妥当な方向性を導く

いささか感情的なアジテーションに流れてしまったかもしれないが、理性的に考えた場合、適切な予測を行うための秘訣を外化することはできないのだろうか、と思う。もちろん当確の度合いには限度があると思われるが、人間の基本的性向から考えて、妥当と思われる方向性を導くことは全く不可能ともいえないだろう。そこに聞く耳があろうがなかろうが、ともかくその方向性を探ること。それが「考える人間」の社会的存在意義というものだろう。次回には、どういうものが「発展」し、どういうものが「衰退」するか、ということについて、少し大胆な仮説を提示してみたいと考えている。

(つづきは「製品開発の適否の判断(2) 判定の原則はないのか」)

公開:2014年9月29日
著者:黒須教授

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