「人間中心設計」が適切な場合
つい先日、「人間中心設計」に対して「ユーザ中心設計」という表現を推したばかりで恐縮だが、人間工学全体、特に労働科学から考えた時には人間中心設計という表現でも間違っているとはいえない、ということで、ちょっと加筆しておきたい。
労働科学における人間中心設計
国際人間工学会(IEA: International Ergonomics Association)のサイトを見ていたら、図1のような図に出くわした。そのページでは、人間工学(ergonomicsないしhuman factors。以下では、原語のニュアンスを残すためにergonomicsを労働科学、human factorsを人的要因と訳しわけている部分がある)の定義が掲載されているのだが、それを補う図として図1が掲載されている。
ちなみに、そこのページでの人間工学の定義とは
労働科学(ないし人的要因)とは、人間とシステム、その他の要素の相互作用の理解に関する科学的専門領域であり、人間の健康とシステムの全体的パフォーマンスを最適化するために、理論や原則やデータや手法を設計に適用する専門職のことである。
となっており、さらに
労働科学の実践家や労働科学者は、人々の要求や能力、そして限界と両立しうるように、タスクや業務、製品、環境、システムの設計や評価に貢献するものである。
となっている。そもそもIEAという国際学会の名称に「労働科学(ergonomics)」が使われており、この定義のなかにおいても「人的要因」はカッコ入りの「ないし」という扱いになっている点に注意しておきたい。
図1には製品やタスク、組織、環境、業務に囲まれた形で労働科学が位置づけられており、後から書き加えたような感じで「人間中心設計」と書かれている。要するに、労働科学は人間中心設計と同じことだ、ということのようだ。
「労働科学」においては、ILOとIEAが共同で出した『Ergonomic checkpoints』(1)の目次に見られるように、材料の貯蔵や取扱い、ハンドツール、機械の安全性、仕事場の設計、照明、作業環境、危険物と取扱者、福利施設、作業組織というように、「労働」というニュアンスが強く押し出されている。つまりユーザというよりは人間、より正確には人間的身体条件や生理条件を備えた労働者に関する案件が扱われている。作業環境の一部にコンピュータの利用における姿勢や寸法などの話がでてくるが、それも身体的な適正条件の話であり、このチェックポイントの基本的対象となっているのは身体的労働である。
こうした場合、労働者の安全や健康を守りつつ、仕事の最適化を図ることは、当然「人間中心設計」と言っていいだろう。チェックポイントに登場する人間は、ほとんどが労働者であってユーザではないのだ。もちろん、その延長として、ユーザの安全や健康を守りつつ、彼らの仕事の最適化を図ることを考えることも人間工学に含まれる、と主張することはできるが、それは「労働科学」という言葉のニュアンスとはいささか異なる。
そもそも人間工学という言い方は
さて、人間工学のもうひとつの言い方としてhuman factors、つまり人的要因という表現があることは先に述べたとおりである。欧州を中心として身体的側面に注目した「労働科学」が発展し、米国を中心として知覚や認知などに注目した「人的要因」の研究や実践活動が発展した、とはよく言われることだが、洋書の人間工学の書籍タイトルでは、human factors engineering、つまり「人的要因工学」、となっていることが多い。
それでは「人間工学」という日本語表現はどこから来たのだろう。日本人間工学会のサイトによると、どうやらそれは1921年の田中寛一の『能率研究 人間工學』あたりが発端のようだ。同じサイトではhuman engineeringという英語が使われているが、これはどうも和製英語のようで、ためしにamazonでhuman engineeringと検索しても、見つかった数少ない書籍には、人間を利用してうまく働かせるには、といった類の本が多い。いわばhuman resource engineeringといったニュアンスなのである。
日本人としては、すでに耳に馴染んでしまった「人間工学」ではあるが、あくまでもそれは日本的な慣用であり、国際的には「ergonomics (or human factors)」ないし「human factors engineering」という表現が通用している状況なのである。ただ、欧米から渡来した学問だから常に欧米が正しい、ということではない。国際組織であるIEAですら二つの名称を併記せざるを得ない現状に対して、日本の人間工学関係者は、改めて「human engineering」という表現を見直し、それが適切と判断したらその普及に力を入れてもいいのではないだろうか。
ただ、ちょっと気になるのは、著者がuser engineeringという概念を考えているといった時、(故)Nigel Bevanが「なになにengineering」というのは「なになにを利用して何かを良くすることを言うから、ちょっと違うかもね」と言ったことだ。依然として強引にユーザ工学という旗印を掲げている僕ではあるが、たしかに電気工学も機械工学も電気や機械を使って人間生活を益するための工学である。human engineeringという表現が英語として適切なニュアンスであるのかどうかは、ネイティブに確認しておく必要があるだろう。
労働科学以外の人間工学領域での人間中心設計はどうか
さて、労働科学と人間中心設計の関係は一応フィックスした。では、次に人的要因というニュアンスにおける人間工学と人間中心設計の関係はどうなのだろう。この点を考えるのに適切な資料は、ISO規格のTC 159 (Ergonomics)のSC (サブコミティー)の構成である。Ergonomicsという表現を使っているが、図2を見ていただけばわかるように、その対象は労働だけではない。
図に引用したように、現在、SCとしては、SC1, SC3, SC4, SC5が活動をしている。見ていただくとわかるように、SC1は基本原理、SC3は身体関連、SC5は物理環境であり、コンピュータなどのインタラクティブシステムを扱っているのがSC4である。そして人間中心設計という表現を初めて掲載したISO 13407:1999がまとめられたのは、このSC4においてである。つまり、「人間-システムの相互作用に関する人間工学」であり、労働科学というよりは人的要因というニュアンスの強い人間工学領域である。
そしてISO 9241-11:1998やISO 13407:1999 (後継がISO 9241-210:2010)は、もともとユーザビリティに関する規格であった。いいかえれば、これらは作業場における労働者に関する規格ではなく、そこから生み出される製品やシステム、サービスのユーザに関する規格だったのだ。こうなると、話が整理されてくる。
労働者に関しては人間中心設計と言ってもおかしくはないが、ユーザに関してはやはりユーザ中心設計というべきではないか…と。ここで以前の原稿とその趣旨が首尾一貫してくる、という次第である。
参考文献
- International Labour Office (2010) “Ergonomic checkpoints – Practical and easy-to-implement solutions for improving safety, health and working conditions, Second Edition”