ユーザは頭が悪いのか?

ユーザビリティムーブメントに敵対する人たちは、こう反論する。問題が起こるのは頭の悪いユーザに焦点を当てているからで、ほとんどのユーザは複雑でも大丈夫だ、と。現実には、頭のいいユーザですら、独特なデザインをナビゲートするより、自らのゴールを達成する方を優先するのだ。ウェブの利用が広まるにつれ、ユーザビリティ軽視のツケは拡大する一方だろう。

ユーザビリティに反対する人は、よくこういって反論する。ユーザの代弁者たる私たちは、頭の悪い人々に焦点を当てすぎている。よくある反論は以下のようなものだ。

  • ユーザビリティ調査にあたって、私たちは特に頭の悪いユーザを選んでいる。私たちの調査結果は、頭のいいユーザには当てはまらない。
  • シンプルさをデザイン上のゴールに置くべきだという私たちの勧告は、ユーザは皆バカであるという誤った思い込みに基づくものだ。彼らの主張によれば、実際には、複雑なサイトでもナビゲートできるユーザはたくさんいる。
  • 中には、頭が悪すぎて、テクノロジーそのものが彼らの理解の範疇を超えているという人たちも存在する。あらゆる人にとって簡単なウェブサイトを作るなんて、ゴールとして非現実的だ。

これらの反論に、これからひとつずつ答えていこう。その後、インターネット人口の増加にともなって、ユーザビリティおよびユーザの知性に関する態度次第で、ビジネスに与える影響がいかに大きなものになるかを見ることにする。

「テストユーザがバカだから」

ユーザビリティテストで自らのデザインが試される現場を目の当たりにしたプロジェクト管理者は、たいてい、まずはこういう反応を示す。「こんなバカなユーザ、どこで見つけてきたんだい?

最近、私が発表したWAPユーザビリティ調査に対して、まさにこういう反応が返ってきた。調査の結論はこうだ。ほとんどの目的に関して、WAPの使い方(携帯電話からのインターネット利用)は難しすぎる。この結果に対して、WAPの大株主の一団から反論が返ってきた。WAPの熟練ユーザを対象にした調査なら、もっと違った結果が出たはずだというプレスリリースを流したのだ。確かにそうかもしれないが、彼らの反論は的外れだ。

  • 第一に、新しいテクノロジーでは、ユーザの第一印象がことのほか重要だという事実を無視している。そもそも、そのテクノロジーを学ぶことができないのなら、熟練ユーザになどなれるはずがない。
  • 第二に、私たちの調査では、参加者はWAPを1週間利用しており、テストは、その期間の初めと終りに行った。もし丸1週間あってもユーザインターフェイスの学習には不足だというのなら、もはや一般消費者向けテクノロジーの話とは言えない。

ユーザビリティの教訓は、口当たりのいいものばかりとは限らない。あらゆるボタンをクリックして回るくせに、「明らかに」答えにつながっているボタンだけは避けて通るユーザの姿を、後ろの部屋で座って見ているというのはつらい体験だ。初めてユーザビリティ調査に参加したプロジェクトメンバーは、たいてい、その体験が物語る真の教訓から目をそむけてしまうようだ。

しかしそれも、2人目のユーザを連れてくるまでのこと。彼、または彼女は、やはり最初のユーザと同じ問題に、かなりの数、遭遇する。さらに、3人目のユーザがやってきて、またたくさん同じ問題にぶつかる。この時点で、ユーザの窮状に対するデザイナーの態度は和らぐことが多い。もしダメでも、4人目、5人目のユーザを見れば、効き目が現われてくるはずだ。

デザインの利用で問題が生じる場合、それは彼らの頭が悪いせいではない。デザインが難しすぎるせいなのだ。

「現実のユーザはデザインが複雑でも気にしない」

狂信者たちは、時に、最先端のテクノロジーや複雑なデザインを擁護する。本当は、ユーザだって洗練されたウェブサイトが好きなんだ。彼らの主張によれば、ユーザは頭がいいから複雑なデザインでも大丈夫だ、というのだ。

こうした狂信者たちの言動は、ウェブの基本的性質に関する誤解に根ざしている。ユーザに、複雑さを克服したり、先進的なユーザインターフェイスを習得する能力があるかどうかは問題ではない。問題は、彼らにその気があるかどうかなのだ。

コンピュータ経験が豊富で、テクノロジーに関する適性もあり、IQや教育も高レベルというユーザを対象にしたユーザビリティ調査を、私は数多く行ってきた。こうしたユーザも、他のユーザと何も変わりはなかった。自分の望むことをやりたいだけなのだ。彼らには、各ウェブサイトの独自性について学習したいという欲望も、そのための時間もない。

ウソだと思うなら、例えば、ネットワークシステム管理者か、国際投資アナリストを対象にテストしてみればいい。そこでわかるのはこんなことだ。彼らは自分の仕事で複雑な問題にたくさん直面している。自分の脳細胞をウェブサイトや、そのデザインのために割くつもりはない。彼らの望みは、タスクを達成のために入って、出て、次へ進むことなのだ。

複雑なデザインは、ユーザに対する障壁になる。確かにその障壁は飛び越えられるものかもしれない。だが、どうしてそんなことをしなければならないのだろう?ウェブとは、すなわち移動の自由を意味する。当面のタスク達成の障害となるものは、すべてユーザ体験の上ではマイナスとなる。

「中には頭が悪すぎてまじめに取り合う価値のない人もいる」

他人より頭の切れる人がいる。知性という観点で言えば、このコラムの読者の大部分は、全人口の上位10%に入る人たちだろう。このような高みから見ていると、他の人はみんなバカだと考えがちだ。だが、こう考えた方が公正だし、正確(もちろん生産的)でもあるはずだ。全人口のその他90%を占める人々の頭の良し悪しよりも、彼らが観客の主流を占めるという事実の方が重要だ。

しかしながら、洗練された高度なハイテクシステムを使いこなす知性を持ち合わせない人もいるだろう。だが、そんな人がオンラインに参加するだろうか?現状では考えにくいことだ。

合衆国やスカンジナビアのような、もっともオンライン化の進んだ社会でさえ、インターネットを利用しているのは全人口の半数に過ぎない。しばらくの間は、かなりエリート的なメディアであり続けるだろう。よって、現時点での定義から言っても、今ウェブを利用している人は、おそらくかなり頭のいい人だろう。とすれば、ユーザがサイトやデザインに困難を感じている場合、これを彼らの頭の悪いせいにするというのは無理である。今のウェブユーザが問題を抱えるのは、デザインが難しすぎるせいだ。

先を見越す

インターネットが成長を続けるにしたがって、より幅広い人口セグメントをカバーするようになるだろう。5年後には、無作法にもバカ呼ばわりされる人たちまでが、実際にオンラインに参加するようになるかもしれない。そういった人々をウェブに組み込むべきか、それとも排除すべきかは、政治的、社会的問題である。

ニューエコノミーから排除できるのは、全人口の何パーセントだろう?

私の見るところ、この答えは「ごくわずか」だ。政治家たちは「ゼロ」というだろう。敬意は表したいが、ゴールとしては現実的でない。リテラシー(読み書き能力)から類推するのが適切だろう。豊かな国々すべてが100%の識字率を目指すだろうが、識字能力を獲得できない子供は必ずいるものだ。だからといって、識字率が低い状態を容認はできない。それでは、社会の繁栄が維持できないからだ。

インターネットユーザビリティの必要性がなくならない限り、まだ問題は始まったばかりだ。インターネットが全人口の80%に浸透しても、あいかわらずユーザにとって使いやすいだろうといえるウェブサイトは非常に数少ない。全人口の95%(99%は無理としても)に役立つようにしたいなら、ユーザビリティ面で相当の改善が要求されるだろう。

政治的、道徳的問題を別にしても、ユーザベースが拡大することで、非常にシンプルなビジネス上の疑問が生まれる。頭が悪くてウェブサイトの使い方がわからない、という理由で、見込み客の何パーセントを逃がすことになるのだろうか?見込み客の10%?20%?エリート的な態度の代償は、かなり高価なものだ。

サイトが難しいせいで顧客が20%減るのを受け入れたとしても、いずれにせよ、残りの全人口80%の人にとって使いやすいサイトにはしなければならない。オンラインに存在しているサイトのほとんどが、全人口の50%にすら難しすぎる。この現状からすれば、どの企業もユーザビリティを相当改善しなくては、20%を「許容範囲」としてあえて捨てる身分にはなれないだろう。

2001年2月4日