テレビがWebに出会うとき

以前に書いたWebTVのユーザビリティ評価記事で、私は、特に初心者ユーザのユーザビリティという観点から、それは非常に優れたデザインであると評価した。だが、狭い画面とリモコン上のカーソルキーに起因するデザイン上の制約はかなり厳しく、理想的なウェブ閲覧体験とはいえないという結論を出した。もちろん、テレビを使ったウェブアクセスは、それ以外のメリットが他にあるのなら、必ずしも通常のコンピュータと同等の使い勝手を実現する必要はないかもしれない。

これまでのメディアでの経験から、かなりよく似たメディアでも、お互いの特性や得意分野に違いがあることがわかっている。テレビ、映画、それに劇場を考えてみよう。これら3つとも、基本的には、衣装を着けた人間の俳優が台本どおりに舞台で演じて見せるものである。いずれもマンガ本や小説、討論会、あるいは円周率の最初100万桁といったものとは、かなり異なったものである。とは言うものの、この3つのメディアの目指すところは違っている。

  • テレビとは、すなわちキャラクターである。TVの小さな画面には、遠景でなく、人の顔やクローズアップが映し出される。観客は居間に座っていて、そこには他にも注意をそらすようなものがたくさんある。番組は長くても1時間くらいのものが多いから、あまり複雑なプロットを展開するわけにはいかない。シリーズものが多いのは、毎週同じ時間にチャンネルを合わる方が、視聴者にとって都合がいいからだ。これは別段難しいことでもない。テレビ受像機は家の中にあって、使用料を払う必要もないからだ。毎週続けて同じキャラクターを見ているうちに、シーズン中にはかなりの親近感が醸成されるだろう。
  • 映画とは、すなわちストーリーである。わざわざ映画劇場までクルマを飛ばして行かなくてはならないから、そこで観客は30分番組以上のものを期待する。ただし、人間の生物学的な理由から、ほとんどの映画はあいかわらず2時間未満だ。観客は映画が終わるまでの間暗い部屋に閉じ込められる。テレビでは不可能な複雑なストーリー展開が可能だ。一方で、映画は有料で、外出が必要というわずらわしさがあるため、定期的に見にいく人はまれである。よって、(人気映画の続編は別として)続き物はほとんどない。シリーズものが少ないせいで、映画ではキャラクターよりも、強力なプロットに依存したものが多い。
  • 劇場とは、すなわちアイデアである。観客は舞台から遠く離れた座席に座っていて、映画のように俳優をよく見ることはできない。凝った舞台装置や背景についても同様である。こういった違いがあるため、視覚表現よりもセリフの役割が大きくなる。また、公演にあたって毎回生出演する俳優のギャラが加算されるため、チケット代も映画とは比較にならないほど高価なものになる。また、観客には、よりエリート、かつ知的な人が多くなる。一方、公演を実現するための初期費用は映画より少ない。よって、実験的表現には劇場の方が適している。

さらに、当然ながら、テレビにはかなりの量のニュースやノンフィクションが含まれているが、これは映画や劇場には見られないものだ。リアルタイムでコンテンツを配信できるTVの能力が生かされている。

以下の表は、テレビと従来のコンピュータをいくつかの側面から比較したものである。

テレビ コンピュータ
画面解像度(表示できる情報量) 比較的貧弱 中サイズから、可能性としては相当巨大な画面まで様々
入力デバイス リモコンやオプション品のワイヤレスキーボード。少量の入力やユーザアクションにもっとも適している。 デスク上に固定設置されたマウスとキーボード。すばやく両手の位置を決められる。
視聴距離 数メートル 2、3インチ
ユーザの姿勢 リラックスして横たわった姿勢 身体を起こしたまっすぐの姿勢
部屋 居間、ベッドルーム(雰囲気的にも伝統的にもリラックスにつながる) 自宅オフィス(ペーパーワーク、税金還付その他:雰囲気は仕事)
同じデバイス上に一体化される可能性があるもの 多様な放送番組 事務用アプリケーション、ユーザの個人データ、ユーザの仕事データ
ユーザ数 社会的:たくさんの人で画面が見られる(たまには、何人かの人たちと、テレビのついた同じ部屋にいることもあるだろう) 孤独度:同じ画面を見られる人は数人(コンピュータを使っているときは、普通1人だ)
ユーザの関心 受動的:観客は、ネットワーク企業の重役が放送を決めた番組を受信するだけ 積極的:ユーザはコマンドを出し、コンピュータはそれに従う

テレビを使ったウェブアクセスは、コンピュータ画面でのウェブアクセスとは違ったスタイルのメディアであることが明らかだ。この違いは当然のことであり、これによってウェブはより強力なものなるだろう。たとえて言えば、新聞と書籍が違うからといって紙媒体に悪影響がないのと同じだ。

コンピュータ上でのウェブは、非常に情報豊富なメディアであり、かなりの程度、ユーザが主導権を握って集中的にことを進める。ユーザはハイパーテキストを順次クリックして、自らの体験を創り出していく。WebTVがこの種のユーザ体験に適していないことは明らかだ。

テレビ画面でのウェブも、完全に受動的なテレビ放送というマスメディアに比べれば、やはりユーザ主導で個人的なものといえる。しかし、このデバイスにより適した方向でことを進める必要がある。これは何も、WebTVユーザが従来のウェブに部分的にアクセスできたところで得るものなどない、と言っているのではない。シェークスピアの演劇を元に制作された映画のヒット作は何本もあるし、テレビではしょっちゅう劇場映画を放送している。だが、上でも指摘したとおり、大筋としてこのメディアは別ものだということがわかったのだ。

テレビでのウェブが向かうべき方向としてもっとも明白なのは、テレビ放送との一体化である。オンラインテレビ番組表は、WebTVユーザにぴったりのコンテンツの一例だ。各番組の詳細情報へのハイパーリンクを設けると、非常に役に立つだろう。例えば、「この役を演じている俳優の名前は?」「この野球選手の過去の成績は?」といったものだ。ここで重要なのはユーザが見ていた番組の名前を把握して、その番組に適したリンクをシステムが提示することだ。こうすると、基本的なユーザ体験はテレビを主軸にしたものになり、完全な柔軟性を備えたブラウジングとは一線を画するものになる。

Drawing of idea for integrating Web and TV: the anchor of a show throws out a hypertext reference that animates into a webpage
この図に示したのは、SunSoftのWorlds Without Windowsプロジェクトで私たちが提示したアイデアのひとつ、テレビ番組からウェブへのハイパーリンクを実現するユーザインターフェイスである。テレビ番組の司会者(「Jane」)は、さらにくわしい情報がウェブサイトにあると視聴者に言う。彼女が物を投げるしぐさをすると、その動きをセンサーが捕らえ、ハイパーテキストリンクが彼女の手から飛び出てきたように見せる。これが次第に形を変えていって、問題のウェブページの縮小版になる。もしそのページを読みたければ、ユーザがそのウェブリンクを起動するしぐさをすればよい。このプロジェクトでは、大画面の利用を想定していたので、ウェブ情報は拡大して別エリアに表示されるようになっていた。だが、同じアイデアをWebTVの改訂版に応用するなら、小さなモニターを放送とウェブ閲覧で必要に応じて切り替えるのも一法だろう。図の右側には、別のアイデアが示してある。テレビに結びついたチャットルームでは、友達どうしで番組について語り合えるようになっている。

もっと広い帯域幅を使えるようになれば、テレビベースのウェブを利用して、夜のニュース番組を視聴者ひとりひとりに合わせて放映することもできるだろう。例えば、番組の始めに、ニュースキャスターがその日の見出しを読み上げるようにもできるはずだ。各家庭から折り返し見たいニュースを知らせてやる。おもしろそうな見出しが読み上げられた瞬間に誰かひとりがボタンを押すか、あるいは家族全員が自分のボタンを持っている。後者の方が、より家庭向きだろう。現在のWebTVのデザインでは、リモコンはひとつだけ。これでは離婚調停弁護士の思う壺だ。

夜のニュース番組のカスタマイズのために記事を選択するという例では、かなり受動的なインターフェイスになっていたことに注意して欲しい。限られた選択肢が読み上げられるのに合わせて、ボタンを押すのだ。一般に、ユーザに要求される操作や行動の量の多寡が、テレビベースのウェブとコンピュータベースのウェブを分ける最大の違いになるだろう。これに比べれば、動画の利用はさほど重要なことではないと思う。帯域幅が広がり、コンピュータのパワーが増大するにしたがって、コンピュータベースのウェブにはもっとマルチメディア効果が取り入れられるようになると予想されるからだ(より圧縮率が高くなり、ローカルのハードディスクには、少なくとも1テラバイトのキャッシュが装備されるようになるだろう)。

結論:

  • コンピュータでのウェブとは、すなわちインタラクションであり、ユーザの主導権と力を最大化することである。
  • テレビでのウェブとは、すなわち放送との統合であり、そこでは過度のユーザ主導権は必要ない

1997年2月15日