ユーザビリティと自己拡張満足感 -可能性について-
最近、辰巳渚さんの本を何冊か読んだ。家事塾を主催している彼女の書いた「捨てる技術」に関する本である。
辰巳さんとは共同でプロジェクトをやろうとして、いま準備をしているところなのだが、この一連の本に書かれている内容についてはいまひとつしっくりこないところがあった。それは素朴に「そもそも、どうして捨てなきゃいけないの」という疑問である。
もちろん、鳴らないラジオやテフロンのはげたフライパンなどのように、そもそも機能しないものであれば、もし特別な思い入れがあるのでなければ、捨てるのが妥当だろう。それは目標達成という人工物発達学の観点からしても、目標達成につながらない人工物だから無用のもの、ということになる。またPatrick Jordanのfunctionality, usability, pleasureというレベル分けの考え方からしても、機能性を失ったモノはモノ以前の代物ということになってしまう。
しかし、まず当分、いやもしかしたら将来も使わないかもしれないものを捨てるのが適切な考え方かどうかについては、意見が分かれるところだろう。
僕はいまだにLPレコードを沢山持っている。同じモノをCDでほとんど買い集めてしまってもいるし、まずほとんど聞くことはないだろう。もちろんレコードプレーヤは持っているし、それはステレオにつないである。しかし、そこから音が鳴ることはほとんどないように思う。でも、だからといってこのLPレコードを捨てる気にはならない。そこには僕の10代、20代の思い出が詰まっているからだ。
本もそうだ。特に専門書の類については、まずユーザビリティやヒューマンインタフェースの本が古典的なものを含めてごっそりとある。それだけでなく、関連したWeb技術やユニバーサルデザイン、アクセシビリティなどもあるし、心理学、認知科学、人間工学、品質工学、社会学、経営学、哲学、文化人類学、民俗学、情報工学、システム工学、語学など、別宅や研究室に置いてある本を含めると膨大な数を保有している。しかし、既に読んだものはそのごく一部にすぎない。それ以外の本については、少しだけつまみ読みをしたものもあれば、これから読もうと思って全く手をつけてないものも多い。それは可能性を買ってきたからである。いつか読むかもしれない、そして、その時に絶版になっていたのでは困る。読みたいと思った時にすぐに読めなければこまる。こうした可能性のための購入の結果として、専門書は山のようになってしまったのだ。これを捨てろなどと言われたら、それこそ僕は体を張って抵抗するだろう。
「捨てる技術」の辰巳さんは、捨てることについて逆説として語っているような気もする。彼女の本の中では、なぜ捨てなければいけないのかが説明されずに、いきなり捨てる生活について書かれているからだ。普通に読むと「すっきりして綺麗なインテリアの方がいいでしょ」「だから捨てましょう」と言っているように思える。しかし、捨てることの目的をあえて書かずにいるところが、逆説ではないのかと考える理由なのだ。いいかえれば、捨てることになるようなものは最初から買わないこと、本当に必要になってから買えばいいのだから、といいたいのではないか、と思うのだ。
これに関連したこととして、最近、産業技術大学院大学の安藤昌也さんとトロント大学の溝渕佐知さんと共同研究を始めている。その研究では、モノ(人工物)を保有することによって生起される概念として、所有感や愛着などと並行して、自己拡張満足感というものを提案している。これは、モノを保有することによって自己概念が拡張され、そのことによって満足感が得られるだろう、というものである。
たとえば自動車を保有することによって行動半径や行動パターンは広がる。ある人が東京に住んでいるとして、自動車を持っていれば、電車や飛行機や自転車では行きにくい場所に、重くて大きな荷物を抱えて、さらに友人や家族と一緒に旅行することができる。その際、実際に日光や箱根や奥秩父、さらには磐梯高原や木曽や、ともかくいろいろな場所に「実際には行かないかもしれないけど」行くことが可能であるということを考えると、自分の持っている可能性にうれしくなり、それによって一種の満足感が得られるだろう、と考えている。もちろん実際に車を使って移動すれば、それはそれなりの現実的な自己拡張として満足感につながるわけだが、自己拡張満足感は、可能性によっても実現する性質を持っている。
先に書いたLPレコードの話も専門書の話もここにつながる。家のなかにあって、実際に使うことはほとんどなくても、それを持っていることによって、それを使う可能性を手に入れる。それが自己拡張満足感につながるのではないか、という話である。思い出の品々というのもそれに近い位置づけになる。他人にとってはゴミに見えるかもしれないけど、当人にとっては、それが自己の心理的領域を時間的に、あるいは空間的に拡張することにつながっているかもしれない。実際には使わないかもしれない電気製品や家庭用品や文房具などを持ち続けることもそれと同根だろう。それは、そうした品々を持っているという事実以上に、それを利用して何かをすることが可能になるという自己の領域の拡張として意味があるのだと思う。
狭いウサギ小屋の中に可能性を超高密度に充満させることが果たしていいことかどうかは、その人の価値観によるだろう。使うかもしれない、という可能性について、冷徹な態度を取ってどんどん捨ててしまうこともありうるし、それを持ち続けることで幸福感を感じることもありうる。それが人間だろう。
改めて考えると、ユーザビリティというのはuse+able+tyであって、ableという部分がそのひとつのポイントである。ableは可能性である。いいかえればユーザビリティとは使うことが可能であることだ。ついでに書くと、最近、ISO9241-11のユーザビリティの定義の狭さが気になっている。effectivenessとefficiencyはたしかに重要だが、それ以外の部分を全部satisfactionに追い込んでいるように思える。(しかも、僕が以前から主張しているように、satisfactionは他の要因にも左右される総合的な指標である)。普通、ユーザビリティは、人工物を使おうとした時に、それが使えることを意味しているが、少し拡張して考えれば、それは人工物を使おうとすれば使うことができるという意味をも含んでいるような気がする。すなわち可能性としてのユーザビリティである。自己拡張満足感に関連して、そんなことも考えている。