電子ブック

問題は電子ブックという機器の使い方である。ソフトウェアも関係しているが、そもそも電子ブックというコンセプトそのものの問題だ。小説のように最初から順番に読んでいくものについては、国文学の論文を書くような場合以外、こうした機器でも何とかなる。しかし…

  • 黒須教授
  • 2011年9月5日

Kindle 2が発売になったので2台目のKindleを購入してみた。画面サイズは同じで、本体サイズが小さくなり、軽くもなっていて、まあその点は良いけれど、日本語コンテンツがない(メールベースで自分の持っているコンテンツをKindleフォーマットに変換してくれるようだけど、面倒くさい)、表示がモノクロである(特にカラーの図版や写真がある時には、悔しい思いをする)など、今後の課題は残されている。それでも英訳されたKantなどの哲学書を読んでみたり(これが無料なのはありがたい)、新刊書を読んでみたり(この場合、たいてい紙版も注文している)して、それなりに利用している。

ただ、操作性からいえば、Kindle for PCのほうが圧倒的に使い勝手が良い。ノートパソコンにインストールしておけば、Kindleより重たいが、他の仕事もできるので、結局そちらの方を良く使っている(ならKindle 2を買う必要もなかったのだが)。パソコンの良さは特にポインティングデバイスにある。Kindle本体の十字キーでタラタラ操作するより、ずっと軽快に操作ができる。したがって、分からない単語の意味を見るために、単語にカーソルを合わせてクリックする操作も簡単。これは至極便利な機能といえる。

その他のハードとしては、iPadやiPodにもKindle for PCをインストールしているが、iPadという装置のそもそもの存在意義が明確でなくなってきており、ほとんど使っていない。海外の空港でみつけたBluetoothベースのキーボード付きケースも買ってみて、ああタイピングが楽になった、とは思ったけど、重さからいっても大きさからいってもパソコンとの棲み分けが微妙である。iPodの場合には、Kindle for PC以外のブックリーダーも入れて青空文庫で小説を読んだりしている。これは字が小さいのが難点だが、電車のなかで小説を読むのには、まあまあ手頃な機器といえる。ただ、最近iPhone4を購入したので、そもそもiPod自体の位置づけが曖昧になってきている。困ったものだ。

ハードウェアについてはそんなところなのだが、問題は電子ブックという機器の使い方である。ソフトウェアも関係しているが、そもそも電子ブックというコンセプトそのものの問題だ。小説のように最初から順番に読んでいくもの(線形文書)については、国文学の論文を書くような場合以外、こうした機器でも何とかなる。しかし論文や原稿を書くための資料になるような文献を読んでいる場合には、読む場所が飛び飛びだし、前後に移動する。付箋機能もあるけれど、紙の書籍に比べるとその移動の手間は面倒だ。そうした非線形な読み方については、インタフェースは今ひとつというべき現状である。

さらに困るのは、パソコンでKindle for PCを使っていても、その書籍内容を自分で書いている原稿にコピー&ペーストできないことだ。これは参考資料として利用する場合には不便このうえない。さらにさらに困るのは、一度に一冊の本しか読めないこと。資料の場合には、机の上に複数の論文や書籍をおいて、あちこちを見ながら仕事をするが、そうした使い方をしようとすれば、複数台の電子ブックが必要になる。しかもプリントした論文のように軽く薄くない。

もちろん、指定した範囲をプリントアウトすることもできない。あくまでも電子の世界だけの電子ブックなのだ。

こういう訳で、電子ブックは、いまのところ、小説や哲学書をあたまから順番に読んでいく場合、それと資料としての書籍をまずざっと読んでしまうためにのみ活用している。人間中心設計の原則として、ユーザとシステムの機能分担の最適化ということが言われているが、この状態は、システムの現状に合わせてユーザが使い方を考えているわけで、とても人間中心とはいいがたい。

一般のユーザの皆さんは、さて、どのように電子ブックを利用しているのだろうか。ちょっと調べて見たい気がする。Amazonのサイトに行くと、Kindleの広告が派手に載っているが、さて、実際にどのように使われているのか、果たして使われてすらいないのではないか、という疑念がわいてくる。Kindleだけではない。現在は多種多様な電子ブックがでてきているが、本当に「活用」できる電子ブックはその中にあるのだろうか。実に疑問である。

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