グループワークと主体性

過去のドラスティックなシステム提案は、すべてではないにしろ有能な個人の主体的思考や行動から生まれたと思っているが、グループワークがそうした意気込みを持った主体的な個人の角を矯めてしまうことになりはしないか。

 最近、ユーザビリティやUXに関連した作業がグループで行われることが以前に増して多くなってきたように思う。これまでも、たとえば、古典的なブレインストーミングやKJ法のセッションに加えて、ユーザビリティテストの後のミーティング、エキスパートレビュー(ヒューリスティック評価)のセッションなど、グループで行う場面は多かった。さらに最近では、ユーザ調査(“ビジネスエスノグラフィ”)とその後のセッション、文脈におけるデザインのセッション、KA法セッション、ペルソナやシナリオを利用したセッション、デルファイ法やXB法などのアイデア生成手法によるセッション、ペーパープロトタイピングの作成やそれを利用したユーザビリティテスト、WOZやアクティングアウト等々が加わり、グループ作業は花盛りといった感がある。

 たしかに、「三人寄れば文殊の知恵」という諺もあるし、英語にも「Two heads are better than one」などの言い方がある。衆知を集めるということは、個人の考え方や発想の限界を打破することには有効だから、その点について特に文句をつけるつもりはない。そもそもユーザが多様なのだから、UIを作ろうとする側も多様性でそれに対応していこうとするのはロジックとしても適切だろう。また時間効率の点でも、集まった人たちの人件費のことを別にすれば、所定の時間内で、一人でうんうん唸っているよりは、遙かに効率的であり、生産的であると言えるだろう。

 ただ、こうしたグループ作業をいろいろ経験していると、ちょっと気になることがある。それは参加している人々の個人としての主体性や責任感が薄れはしないか、ということだ。

 まず、こうしたセッションで提示した考え方やアイデアや発見は、グループの共有知的資産として認知されるのが普通だ。「これは僕の見つけたことだ」とか「これは僕のアイデアだ」と強く主張するのは嫌われる。しかし、こうした場の雰囲気、いいかえれば社会的制約は、大げさにいえば知的資産に対する個人性の放棄ということにつながってしまう。あくまでも組織の一員としての貢献、という形に留まることになる。企業活動は、組織活動であり、組織全体としての量的質的な生産性を向上させることが基本目標だ、とはいえるが、セッションに参加している個人には能力や資質の差があり、それは人事管理的な面から見れば査定につながるものである。有能な人材を適材適所で配置することは組織全体としての生産性の向上につながる。この観点からすれば、グループセッションをしていても、そこでのメンバーの働き方をチェックする機能が必要だということになるだろう。相互に友好的な職場であれば、特にそのようなチェック機能がなくとも、「彼・彼女は、これこれの面で優秀だね」という共同認知が形成されてゆくため、自然な淘汰によって、そうした人々がピックアップされてゆくこともあるだろう。しかし競争的な職場だと、たとえば得られた成果を、そこでファシリテータをしていたリーダーが「横取り」してしまうようなことも起こりうる。こうした可能性を排除する仕組みも考えておく必要があるだろう。その仕組みをきちんと埋め込むことは、参加者のモチベーション、責任感、そして主体性を更に向上させることにもつながるだろう。

 ただし、グループ作業のなかで、各人の貢献度を個別に認知したり評価したりすることは実際にはなかなか困難だ。具体的にいえば、各人の発言内容やカードに書かれた内容を個別に記録したり集計したりすることは大変なオーバヘッドになる。したがって、そうした人事考課的なスタンスで臨むのではなく、人事評価を行う者は、セッションの中にメンバーとして参加し、全体の流れを見ながら、直感的な洞察で個別の印象を記憶にとどめるようにする、といったやり方を取ることになるだろう。こうしたやり方でも、人事評価の観点が脱落したセッションよりは数段有用なものになるだろう。

 もうひとつ気になるのは、グループ作業が多くなると、主体的に考えようという意欲が低減少してしまわないか、という危惧である。いいかえると、グループの一員としてしか自分を見てくれていないことに対する反発心がもっとでてきてもいいのではないか、ということでもある。過去のドラスティックなシステム提案は、すべてではないにしろ有能な個人の主体的思考や行動から生まれたと思っているが、グループワークがそうした意気込みを持った主体的な個人の角を矯めてしまうことになりはしないか、という危惧だ。もっとも、本質的に有能な人間は、与えられた活動の場だけでなく、何か新しい場を自分の力で作り出し、そこで自分の能力を発揮するようになるのだ、と考えることもできる。そうしたレッセフェール的な考え方は現状肯定的なものであり、今のままでもいいだろうという結論につながってしまうのだが、管理する側だけでなく、管理されている個人の側からも、もっと主体的な動きがでてきていいだろうし、それを適切に採用する仕組みがあってもいいと思う。

 他方、ユーザビリティに関連した主体的活動は、アカデミアで実践されるべきである、という考え方もありうる。アカデミアは基本的に個人を単位とする場であり、そこでは個人としての能力や所産が(基本的には)厳しく審査される(筈である)。そう考えると、主体性を発揮したいと考えた人間は、企業からアカデミアに移って、そこで本領発揮すべきであるということになる。それはそれで一つの方向性だろうと思われる。

公開:2012年2月8日
著者:黒須教授

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