広告という厄介者
ネットでは普通のニュースを閲覧していても広告で画面が埋め尽くされることがある。ユーザ工学の立場からすれば、広告主よりユーザのことを考えてくれ、といいたくなる気持ちはあるが、それは封印せざるを得ないのがこの資本主義社会というものなのだろう。
煩わしい広告
さて、テレビやパソコンを使って日常生活を送っていて、様々な広告をありがたい、うれしい、楽しいと思っている人、「あれが見たい」と思って期待している人はどれくらいいるのだろうか。筆者の偏見であれば謝罪しなければならないのだが、大半の生活者は、広告はうざいもの、煩わしいもの、早く終わってほしいものと思っているのではないだろうか。広告を見たいのに番組本体が邪魔くさい、などと思っている生活者がいるとはどうにも思えない。
多くの生活者は、広告が表示されている間、それを我慢しているか、無視しているか、ほかのことをしているのではないだろうか。声を上げない人の大半は、もう「そんなもの」だと思ってあきらめているのだろう。
いや、広告こそ現代社会の礎であり、資本主義社会は広告なしに成立しない、という考え方もあるだろう。一理はある。しかしものには程度というものがある。頻繁に登場する広告のあり方に積極的に賛同する声が多いとは思えない。
広告とメディア
もちろん、広告には様々なメディアがある。筆者が一番不快に思っているのはテレビCMなのだが、ラジオの広告も鼻につくし、ネットの広告もうざいなあ、と感じる。ただ、ほかのメディア、たとえば新聞の折り込み広告とかポストに投函されるチラシ広告などについては、ドサッとゴミ箱にいれる人もいるだろうが、その日の買い物で買い得品はないかと丁寧に読む人もいるだろう。
筆者の場合は、チラシ広告や郵送広告については、大事な郵便物が紛れていないかを確認する意味もあり、一応、一つずつ手に取って、確認してからゴミ箱に放り投げている。たとえば不動産関連の広告、不用品処分の広告、墓地の広告、ピザ店や寿司屋の広告などはその典型である。今の自分には関係がないからである。市の広報紙は、たまに見ることはあるけれど、たいていバサッとゴミ箱に直行させている。だから、ちょっと面倒に思う気持ちはあるが、そんなに不愉快にはならない。
新聞や雑誌(クレジットカード会社の雑誌も含めて)に掲載されている類の広告は、その場所をスキップして他の記事や次のページに視線を移せばいいので、たまに広告ばかりが連続すると不愉快にはなるが、まあ許容範囲内である。
なお、郵送広告の一部には広告メールがある。これは数が多くていちいち付き合ってはいられないのだが、幸いメーラー(筆者の場合はThunderbird)にはフィルタ機能がある。ワンステップだけ、フィルタに登録する手間をかければ、あとは広告メールは自動的にゴミ箱フォルダに分類されるので、その意味で実害はないと言える。
これらの広告、チラシや郵送、新聞、雑誌の広告は、広告と非広告の区別が明瞭であり、仕訳が容易だから許容範囲に入っているのだ。いいかえれば、筆者の場合には、広告を見ることはほとんどなく、広告主の期待には添えていないことになる。
ユーザが主体的に選別できない広告
前述のテレビ、ラジオ、そしてネットの広告の一部の場合には、広告が情報チャネルを占有してしまうことが問題なのだ。ユーザが広告を非広告と能動的に選別することができないところに問題がある。振り返って新聞や雑誌の場合、広げた紙面には複数のチャネルがある。大別すれば記事のチャネルと広告のチャネルということになるが、記事も広告もいろいろなものがあり、それらが「並置」されている。ようするに複数のチャネルが並列に存在しているので、ユーザとしては、そこから気にとまったものを選択することができる。そうした自由度の存在することが新聞や雑誌というメディアの特徴なのである。
それに対して、典型的なのがテレビだが、特定の放送局の番組を見ている場合には、ユーザに提供されているのは一つのチャネルでしかない。もちろん、番組内容や広告が気に入らないという場合は、リモコンのチャネル(それこそチャネルなのだが)を操作して他局に移ることができる。ただ、広告になったからといって、毎回チャネルを切り替えていくのは面倒である。その結果、広告につきあわされることになる。
ラジオも基本、同様であるが、ラジオ放送を聞く機会は少なくなっているので、あまり邪魔に感じたことはない。
問題はネットである。ネットでFacebookやYouTubeを見ていると広告がでてくるが、Facebookのタイムラインに表示されている広告は、それを素通りしてしまうことができるので、あまり頻度が高くないかぎり、さほど邪魔にはならない。ただ、内容的にいかがわしい商品やサービス、つまり安すぎて怪しく思われるものが結構な比率で混じっているので、広告を見てしまうと不愉快にはなる。
YouTubeの場合には、画面構成としては(全画面表示にしていない限り)メインのチャネルの他に、複数の他のチャネルが表示されているので、チャネル間の移動は容易である。しかし注目しているチャネルに広告が入ってくると、テレビの場合と同じように邪魔された気がして不愉快になる。テレビの広告とは異なり、数秒待っていれば広告を消すこともできるのだが、いちいちそれをするのも面倒である。広告を表示しないようにしてくれるAdBlockというソフトが出回っているのもムベなるかな、というところである。
ところで、ネットでは普通のニュースを閲覧していても、図1のように広告で画面が埋め尽くされることがある。
しかも、「ferretマーケティング講座」という広告は、本文を隠してしまうように表示していて、明らかに本文の視聴を妨害している。少しは反省しているかと思って、4か月後に同じURLを表示させてみたが、図2のようにあまり変わっていなかった。
反省する気はないのだろうか
こうした広告が蔓延してしまっている理論的根拠の一つが「単純接触効果」といわれるものである。アメリカの心理学者だったZajonc (ザイアンスと呼ばれることが多いが、調べるとゼイジョンクに近い https://www.howtopronounce.com/zajonc)が提唱したもので、任意の刺激に反復して接触することにより、それに対する親近感や好意度が高まるという仮説である(Zajonc, R. B. (1968). Attitudinal effects of mere exposure. Journal of Personality and Social Psychology, 9(2, Pt.2), 1–27.)。アメリカの研究者にありがちなことだが、Zajoncは精力的にこの効果を喧伝したし、Grush (1976)やHarrison (1977)、Wilson (1979)などの研究の後押しもあって、特に広告の世界では大原則という位置を獲得している。
もちろん、単純にくどくどと反復提示すればそれで完了ということではなく、それなりの留意事項もあるのだが、広告代理店としては広告を大量かつ頻繁に打つことの裏付けともなる法則であり、その経済的基盤を確立してくれる原則として、大層重宝されることになってしまった。
というような経緯を見てくると、広告代理店や広告主には「お邪魔してすみません」などと「反省する気」は毛頭ない、ということになるのだろう。ひとの迷惑顧みず、といったところである。ネガティブな印象を与える可能性まで含めて広告の効果測定を行うのは実はかなり難しいことで、「効果が低いです」「効果がありません」ましてや「逆効果です」などという結果の出そうな研究を広告代理店が率先して行うとも思われないし、まあ、どうしようもない状況が続くのを眺めているしかなさそうである。ユーザ工学の立場からすれば、広告主よりユーザのことを考えてくれ、といいたくなる気持ちはあるが、それは封印せざるを得ないのがこの資本主義社会というものなのだろう。