UCDとユーザ工学

地理的・生態的環境としての地球全体を考慮すべき時代、人間中心設計(HCD)という言い方は傲慢に聞こえ、違和感を感じる。それに対してUCDという言い方は、概念の目標適合性という点からは適切であるように思える。

HCDとUCDはほとんど同じ意味です、とはしばしば言われることだが、もちろん違いはある。そして(HCD-Netの理事長を退任する予定の僕としては、そしてユーザ工学を唱道している僕としては)どうもUCDの方が良いように思うところがある。

もともと1999年に制定されたISO 13407が日本におけるユーザビリティHCDの活動のバイブルとなっていた訳で、HCD-Netの場合も例外ではなく、ISO 13407が提唱しているHCDという表現を頂いて組織名称にしたという経緯がある。

ではなぜHCDという言い方に違和感を感じるようになったかというと、人間中心という言い方が傲慢に聞こえてしまう場合があるからだ。ためしに主義をつけて人間中心主義と言ってみよう。なんか変だろうと思う。要するに生態学的な観点から、他の生物の皆さんと自分たち人間を区別して、自分たちを世界の中心だといっているような驕りと高ぶりを感じてしまうからだ。人間至上主義とか人類至上主義と紙一重のニュアンスを感じてしまうのだ。しかし人類至上主義は人間世界の周囲を一段低く見ている視野狭窄的な愚かしい考え方だと思う。

人間の自己中心性は、いわゆる家畜をタンパク質資源とみなし、生き物としては見ていない。その一方で鯨や犬ネコは愛玩の対象とみなし、それなりに保護しようとしている。まあ実に勝手なことである。そして、そうした視点に立ってみると、人間中心という言い方は実に傲慢な言い方として耳に響いてしまうのだ。

人間は自然を利用するものとして捉えてきたし、これからもそうだろう。自分たちが生きることが第一だからだ。しかし、自分たちが生きるために自分のことだけを考えていたのではいけないという反省が20世紀の後半に生まれてきた考え方である。

グローバルな視点の必要性を自覚せざるを得なくなった現代では、単に人間社会のなかだけを考えていればいいのではなく、地理的環境としての、また生態的環境としての地球全体を考慮しなければいけない時代である。先日書きたくて薄ぼかした書き方にしてしまったことではあるが、環境問題や資源問題をさしおいてのインタフェースの進歩というようなものは考えにくい。社会全体の基盤を無視して、その表層を引っ掻いているだけのことに過ぎないからだ。

話が大きくなりすぎたけれど、そんな理由から人間中心という言い方に違和感を感じている次第である。それに対してUCDという言い方は、ユーザを重視しようということを言っているだけであり、その視野は人間社会のなかに閉じているものではあるが、概念の目標適合性という点からは適切であるように思える。もし人間という言葉に拘るなら、人間性を重視するヒューマニズムの立場から人間性中心設計と言えばいいかもしれない。ちょっと黴の生えた言い方ではあるが、人間性を阻害している社会から人間らしさを回復するために、ユーザとなる人々の人間性をもっと考えましょう、という提言をしていることになるからだ。

ところで以前、Nigel Bevanがある会合で関係者中心設計(Stakeholder-Centred Design)という言い方をしたらどうだ、と言っていたことを思い出した。それを聞いた時、ふーん、ふむ、と思った。一瞬新鮮な響きはあったのだが、ちょっと待てよという気がした。関係者ということは、消費者やユーザだけでなく企業関係者も含むことになってしまう。たしかに、経営的視点を抜きにしたら「企画」も「設計」も「開発」も「普及」も何もあり得ないのだから、それを考えようとしないHCDには課題がある、という言い方は、ある意味では正しい。しかしoutside-inとかinside-outという言い方があるように、それなりの二項対立の図式を念頭におかないと、何もかにもぐずぐずになってしまうだろう。それぞれの目標が違う以上、対立項は対立項として位置づけておかないと話が明瞭にならない。

ただ、提供側と消費者側という対立関係ほど、提供側と利用者側という関係は明瞭ではない。前者における対立関係は、市場という場において明瞭に見ることができるのに対し、後者における利用者という存在は、市場経済から吐き捨てられた残り物の取扱いに過ぎないように見えてしまうようなところがある。

だからこそのUXなんだよ、と僕はいいたい。いや、そんな意味でUXを使っている人がどれだけいるのか分からないが、UCDそしてユーザ工学の観点からこそUXという概念は重要なものなのだ、と改めて主張しておかねばならないと思っている。

公開:2015年2月25日
著者:黒須教授

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