広告のUX

UXという観点で広告を見たとき、その受容の可否はどうも広告媒体のUXに左右されてしまっている面が大きい。そこで、広告という媒体のもつ特性、特に受信者に対する拘束という点で、その性質についてちょっと検討してみたい。

  • 黒須教授
  • 2020年6月30日

広告への言及

U-Siteで広告について触れるのは、これまで多少意図的に避けてきた。執筆開始当初は、人間中心設計という言葉どおり、ユーザビリティという観点から設計段階に焦点をあてていたからだし、また、実弟が広告業界にいて、それに批判的な言い方をするのを避けていたからでもある。ただ、自分の関心がUXという視野で設計段階だけでなく人工物のあり方全般に広がるにつれ、開発プロセス全体への拡大が必要となり、当然、広告の段階もその視野に含まれることとなった。広告については、ユーザないしは消費者として言いたいことは多数あるのだが、今回はその立場から受信側にとっての不利益について書きたい。

なお、今回の内容には、筆者の感性、というか個人的な好き嫌いがかなり反映されており、客観的な統計データ等にもとづく記述ではないことをお断りしておく。ちなみに、筆者の個人的な嗜好でいえば、最近では、本田翼のLINE Mobileの広告や、イエローハットの真っ黄色な画面の広告(これはアートとも言える)が好きであり、古いもの (最近でも続いているが)では、財津一郎のタケモトピアノの広告が気に入っている。これらは「作品」として筆者が好んでいるものであり、何回見聞きしてもいい。だから、本論は広告を主観的に全面否定しようという意図のものではない。

広告の受容

広告という活動は、企業や商品あるいは何らかの活動に関するメッセージや情報を対象とした人々に伝えることなので、受信側がそれを受容してくれなければ意味がない。つまり、広告は受信側の人々をある意味で「拘束」し、その状況下でメッセージや情報を伝達しようとする。そして受信者が、自分の空間や時間を拘束され、他者に消費されてしまうことを好ましいと思うかどうかは、そのメッセージや情報が自分にとって意味があるものかどうか、価値のあるものかどうか、いいかえれば情報の効用によって決まるといえる。

情報の効用という点から考えると、広告に含まれている情報は受信者にとって無関係のものであることが多く、時には邪魔ですらある。少なくとも、受信者が積極的に検索しようとするような内容のものではない。広告の送信者は、送信している情報が受信されることを期待しているが、その情報は受信者にとっては格別必要なものではないことが多い。

そこで、受信者に対する付加価値を広告に持たせることが必要と考えられることになる。送信サイドでは、広告対象の新規性や審美性などを強調し、あるいは広告対象そのものではなく広告に登場する人物等への好感度や魅力を強調することで、あるいは広告のシナリオや演出のおもしろさを強調することによって、その付加価値を高めようとする。送信者は、そうした作戦によって、ともかく何らかの形で受信者に広告を受容してもらおうと努力をする。

個人的な好みはともかくとして、受信者に受容してもらおうとする時の作戦の立て方がマーケット戦略であり、そこに広告論が登場するわけでもある。多くの広告論は、情報送信者(広告主や放送局)の立場に立ったものである。逆に、受信者の立場から、そのUXに特化して論じているケースは少ない。

広告のUXを考える場合には、広告自体のUXと、広告というメッセージに含まれた製品やサービスのUXの二面を区別する必要がある。もし、製品やサービスそのもののUXにはポジティブな可能性があっても、メッセージ伝達媒体である広告のUXがネガティブなものだったために、製品やサービスに関する情報が受信者まで届かないとしたら、広告は本来の目標を達成できていないことになる。しかし、UXという観点で広告を見たとき、その受容の可否はどうも広告媒体のUXに左右されてしまっている面が大きく、広告作成の依頼主は無駄な投資をしてしまっているのではないか、と思える場合すら目につく。

そこで、広告という媒体のもつ特性、特に受信者に対する拘束という点で、その性質についてちょっと検討してみたい。

受信者の拘束

先に、広告の特徴を明示するために「拘束」という表現を用いたが、広告は、ある一定の空間、一定の時間、受信者であるユーザや消費者の視覚や聴覚、またはその両方を拘束することが必要条件となる。新聞や雑誌など、受信者がページめくりや視線移動によって能動的に情報を選択できるメディアの場合には、広告は容易にスキップされてしまう。パソコンでも、Facebookのタイムラインにおける広告は、邪魔ではあるものの、それをスルーしてしまえばそれで広告はスキップできる。その意味では、新聞や雑誌、そしてFacebookなどは広告の効果において「弱いメディア」だともいえる。

ところが、画面やパソコン画面(ないしはウィンドウ)の場合、受信者の視線は画面範囲内にいわば囚われているわけで、そこに全面的に表示される広告は、時間の流れのなかで確実に受信者に伝えられてしまう。つまりテレビやパソコンは「強いメディア」であり、そこで視聴している動画情報は時間的情報で、受信者を時間的に拘束することが可能になる。この時間的情報という点は、テレビやパソコンにおける動画像表示が、新聞や雑誌などにおける空間的情報と大きく異なる点である。もちろん、テレビやパソコンの画面内においては、情報は空間的にも表示されているため、受信者の注意の範囲や視線の動きをコントロールすることもできる。テレビやパソコン画面における空間的情報としての側面は、新聞や雑誌と異なり、動きがあり、また音声や音響と同期しているため、新聞や雑誌よりも拘束力が高いといえる。

受信者のなかには、こうした拘束を嫌い、自由を得ようとする動きもある。何もしないでいれば、視聴覚的に表示される広告の情報は、受信者の脳内に入り込んできてしまうので、受信者としては意図的にそれをブロックすることが必要になるのだ。そうした拒絶を避けようと、広告作成者たちは視聴覚情報の作り方を工夫して、広告を面白くしたり、美しくしたり、目を引くようにしたりと、好ましいUXを抱いてもらえるように努力している。

しかし、時に暴力的ですらある広告の個人の精神空間への侵略は、それをブロックしたい受信者にとって不快そのものである。やかましい音、作られた笑顔の洪水、陳腐な演出、役不足な出演者、金の無駄としか思えない仕掛けなども不快である。

さらに、ショッピング関係によく見られるパターン化した筋書き(たとえば、品物と金額を提示して、「これだけじゃないんです、30分以内にお電話をいただければ、もう一つ無料でおつけします」のようなもの)や、押しつけがましい決めつけ(ビールの広告の全てが「泡のおいしさ」を訴求してくるようなもの。ビールを注ぐときにコップを斜めにして泡の出を抑える習慣と矛盾している)などなど、広告には不快な要素、ないし不快になりうる要素が満ちているのだ。

しかも、番組コンテンツを広告でぶつ切りにするだけでなく、広告終了時には番組コンテンツを多少遡って再生するくどい番組構成もある。それでも、テレビの場合は広告の前後でコンテンツを適切に編集してあるのでまだマシといえるが、YouTubeの広告の場合は時間がくるとコンテンツの切れ目と関係なしに広告がでてきてしまう。

そこで広告をブロックするための機器やアプリが登場した。これは特に時間的拘束の強いテレビやパソコン画面に対するものである。番組の録画時に自動的に広告をカットするHDDビデオやBDビデオなどがそうだし、YouTubeにおける広告をスキップするAdBlockなどもそうだ。筆者の場合、録画しておきたいと思うほどのテレビ番組はないので広告カット機能のついたビデオ機器はもっていないが、YouTubeは頻繁に視聴しているのでAdBlockを重宝している。

プッシュ型広告とプル型広告

広告の対象となる機器やサービスが、そもそも受信者にとって効用の低いものであるなら、その広告は受信者にとって無意味なものであり、生活におけるノイズであり、侵入者であったりする。受信者がその機器やサービスを利用しているものであっても、いまさら広告されてもなあ、という場合もある。テレビの広告が典型的な例だが、視聴者がそれを受忍しているのは、単にそれを受け入れることによって番組を無料で見られているからにすぎない。その立場関係を理解せず、あるいはその状況に共感することなく、時間枠を金で買ったから後はこっちのものだ、というような態度の広告に対しては怒りすら覚える。さらに広告の製作費用やテレビの時間枠の買い取りなどにかかる費用は、結局のところ製品やサービスの価格に上乗せされて、消費者の負担となっている。UXの理解などという話とは根本的に遙か遠くの世界のことなのだ。

製品やサービスに関する情報を消費者が受け取るやり方には、プッシュ型とプル型を区別することができる。前者は広告主が受信者に情報を「押しつける」やり方で、後者は受信者が情報を自ら取りに行くやり方である。情報というものは、基本的には必要となった時に必要な情報を消費者が情報源まで取りに行く、つまりプル型でいいはずなのだが、時には「押しつけ」のプッシュ型で消費者に知らせることによって、それまでは検索の手がかりすらもっていなかった受信者に情報の存在に気づかせるやり方が有効な時もある。筆者の場合には、新しいICT関連機器が出た時などがそれに相当する。

しかし、テレビ広告でいえば、プッシュ型の情報提示の大半、いやほとんどはそうした幸せなケースには該当しない。要するに有効さの低い情報を押し付けられ、しかしながらその場に拘束されてしまっていることがほとんどである。

広告の効果

ところで、それだけ受信者に嫌われている広告が、どれだけ製品やサービスの売り上げに貢献しているのかというと、実は確たる証拠はなさそうである。それには、広告と売り上げとの間の因果関係が一筋縄ではいかない複雑なものであることも関係している。つまり、売り上げという従属変数に影響している独立変数が広告を含めて多数あり、それぞれの寄与率も明確にはなっていないからである。たとえば、売り上げに影響するものとして、製品やサービスの価格が魅力的であるかどうか、そもそも製品やサービスの出来具合が適切なのかどうか、入手に至るプロセスに問題がなかったか、などが関係している。

では、そんなぐあいに効果が不確かな広告を出すことに、企業側がなぜ積極的に予算を割いているのか、実はそこが筆者によく理解できない点である。テレビショッピングや弁護士事務所などの場合には、おそらくテレビくらいしか適切な媒体がないだろうから、理解できなくもない。しかし、その他大勢の企業の場合、いったいテレビ広告をやめたからといって、どれだけの収益減になるか、ちゃんとした予測ができているのだろうか。あるいは広告をやめたら売り上げが減るという単なる不安感が根底にあり、広告代理店がそこに付け込んで恐怖アピールを行っているのかもしれない。

もし、広告というものが根拠なく大量に流されているとしたら、そのツケを料金に上乗せという形で払わせられ、しかも時間を拘束されて不愉快な時間を過ごしている消費者としては、もっとそのネガティブなUXについて批判的になるべきではないか、などと思っている次第である。