「衝動買わない」の考現学を読んで

1980年代前半はプランド名による差異化だけを問題にしていたが、21世紀の現在は、ネットショッピングの商品検索機能により、目的遂行能力の高低が比較可能になった。その能力を重視する点では戦後に似ているが、ネットショッピング特有の問題も出てきた。

柴田翔の随想集「晴雨通信」のなかに、題記の小編が収載されている。そこには「人生はひたすら広く、そこで起きることは偶然だ。だが、そのことを知った上で、せめて自分の見うる限りの世界を見渡し、そこで最善と思われるものを撰ぼうと努め、そこへ向かって近づこうとすることで自分の一貫性を保とうとしたのが近代だったのではあるまいか。」と書かれている。そして、そうした日本の近代は短く終わったのだと著者は詠嘆し、「人間がそういう指向を全く捨て、実体を見きわめることで最善と思えるものを撰ぼうとせず、「差異化」によって生ずる、実体とは関係ない気分によって撰んで行った時、世界の行く先はどういう結果になるのか。」とも書かれている。

たしかに実店舗であるデパートは、彼が慨嘆しているようにブランドコーナーの寄せ集めになってしまい、暮らしの手帖の商品テストが消費者のガイド役を果たしたような「性能すなわち目的遂行能力の高低を追求する戦後」が終わり、「ブランド名による「差異化」だけを問題にする現在(注: 1980年代前半)」になった状態を21世紀の現在まで引きずってもいる。彼は、目的遂行能力の高低が重要であった時代を近代と位置づけているのだが、そうした近代の終焉を、「もはや戦後ではない」というフレーズで有名になった1956年の経済白書の登場と併せて考えると、その後の商業主義の勃興は、日本(のみならず世界の国々)に新しい消費社会としての性格づけをすることになったといえよう。

そこで20世紀末から現在に至る消費生活のあり方を簡単に振り返ってみたい。相対的に他の同類製品よりも目的遂行能力の優れた品物を探す「近代」的な消費社会のあり方は、まだ製品の間の目的遂行能力にバラツキがあり、一機能に一製品しか購入できないという弱体な消費者の経済基盤を背景にしており、その故に消費者は慎重に製品選択を行っていた戦後という時代の特徴だったと言うことができる。

しかし、その後、上下動を繰り返しつつも、岩戸景気、オリンピック景気、いざなぎ景気、列島改造ブームを経てバブルに至る右肩あがりの傾向と、必需品の一応の整備を終えた各家庭の状況とは、さらなる消費拡大のためにブランドという牽引役の登場を必要とした。そして微差、僅差、ニッチという形で、新たな需要の創造が試みられるようになった。

こうしたブランドのもつ神秘的な力はいまだに強い牽引力をもっているものの、21世紀の現在は、必ずしもそれだけで消費者が動くわけではないという、新たなフェーズに入ってきた。それを後押ししたのがネットの普及と、ネットショッピングという新たな消費形態の登場だ。ショッピングサイトは、ユーザによる検索を基本としており、もちろんブランド名による検索もできるが、商品カテゴリーによる検索は、たいていのユーザが利用していることだろう。ネットショッピングでは、商品の写真やスペック、すでに購入したユーザのコメントなどを見ることができ、その点で、目的遂行能力の高低が比較可能な場になっている。衣類や靴、バッグなどの商品では色が重要な要素であるため、商品の物体色を画面の光源色で完全に表現することはできないが、人々は記憶色などを手がかりにして、あまり大きな間違いのない色選択を行っている。そして、目的遂行能力だけではなく、感性的な魅力やコスト(価格)などを総合した判断によって商品の選択が行われる。

ネットショップのサイトには、ユーザのコメントとして苦言が掲載されていることもあり、その意味では、より的確な商品選択が可能になったともいえる。あとは、目的遂行能力や感性的魅力、コストなどの要因を総合した、消費者の総合的評価関数の構成の仕方と、閾値の設定が、その購入か棄却かを決定する。

ただ、問題なのは、ワンクリックなどのようにあまりに簡単に購入行為が可能になる点であり、そのために、僕のように衝動買いが頻発し、あとでカードの支払いの苦労する人間がでてきてしまう。ショッピングサイトでの衝動買わない行動はなかなか実行が難しいのだが、僕の場合、最近は、ちょっと大きな買い物の場合、撰んだ商品を記録保存しておいて、一日以上たってから改めて冷静になって購入すべきかを決定するようにしている。

さて、こうした現在において、そこに生きている柴田翔がどのような消費生活を送っておられるのか、どこかに随想の続編を書いてもらいたいものだと思っている。

Original image by: Carl Malamud

公開:2013年5月7日
著者:黒須教授

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